発想の転換とは拡張である
発想の転換とは 管理者もよく指摘を受けたものだ。
自分のイメージしか頭に浮かばないものだからそうなるしかないのだが”転換”とは何を意味するのだろう。
作者によってそれぞれ”転換”の意味合いもやり方も違うとは思うのだが、ひとつの解釈として拡張することが転換につながりはしないだろうか。
それはシナリオを書こうとした時に共通するものでもあるのだ。
発想は拡張で生まれる
前のページでは些細な小さい糸口を徐々に広げていく事”拡張”させて形を作っていく理屈をこねました。
もう少しシナリオを書く場合に沿って考えてみたいと思います。
シナリオ、脚本を書くにあたって、はじめに決めておかなければならないこととは・・・
タイトル、テーマ、骨、太い骨と4項目提案しました。
詳しくは次のカテゴリー”脚本を書いてみよう”をご覧ください。
この順番も小さい文言から徐々に大きなものに転換しています。
最初は些細で小さい要素からヒントを貰ってそこから拡大解釈して拡張させているのです。
確固たるイメージとは、発想の段階ではずっと後の方になります。もちろん最初から固まったイメージがある場合もあるでしょう。
でも何も無い所からいきなり全ての具体的な映像イメージなんてプロの制作者だってありません、ですので脚本家はその仕事を任されているのです。
小さいもの、些細なものとは言い方を変えれば曖昧なものとも言えるのです。イメージが固まっていない意味でもそうなります。
拡張することとは曖昧なものから思考を広げていってイメージを具体化する為の一つの方法論です。
要は、「ボヤ〜っ」としたものから「ハッキリ」させることなのです。
我々消費する側の人は完成した映像しか見ていませんし、それしか見慣れていませんので、なかなか発想出来ない事情もあるのですが、完成形でカッチリハッキリしたものの元な何かというとボヤけていてよく分からないモノから出発しているのです。
ですからシナリオとして0から発想することとは基本「ボヤ〜」っとした事からの出発になるのです。
「ボヤ〜」から始まるのです。
上記のシナリオ執筆準備でもタイトルよりテーマの方がハッキリしているし、テーマより骨の方がハッキリしているし・・・以下同文。
タイトルは脚色が必要な場合もありますので、実質もう少し後で決めてもいいのですが、テーマに関してはブレてはいけないものなので最初に確定させます。確定させると言ってもそれは具体性の伴っていないボヤ〜っとしたものになります、というか成らざるを得ない段階なのです。
それは現場のプロの方々でも同じで、実はそれがオリジナリティになっているのです。
素人と違う所は形にする為の引きだしをたくさん持っているという点です。プロの方は環境や経験でそれらを日々養っています。
映像を見た印象は見た人独自のモノなので、あまり例題は挙げたくないのですが、分かり難いのであえて挙げてみます。
こういう感じとだけ捉えて下さい。
テーマはその映像を作った監督さんのオリジナルなものでその人の表現と作品の特徴を表しています。
”機動警察パトレイバー” の押井守監督は 「現実と虚構の狭間を描く」
”秒速5センチメートル” の新海誠監督は 「時間の経過と感情の移り変わり」
”ストライクウィッチーズ” の高村和宏監督は 「可愛いは何事においても優先する」
※作品名に対するテーマは あくまで管理者の主観であります。監督さんの心情や他人の評価も含まれたもので公式に発表されたものではありません。
こうなります。もし間違っていたら申し訳ございません。謹んでお詫び申し上げます。
いかがですか?正直”なんのこっちゃ”の世界です。
でもテーマとはそういうものなのです。そして全てはここから始まっています。
ここから出発して徐々に拡張させて具体的な映像にしていくのです。それには段階を踏む訳ですが、テーマとはその1発目なのです。
ですから最初からなんでも決まっていて作っている訳ではないのです。
ともかく作らなければ、シナリオを書かなければ始りませんので、作者の心情でも、主義主張でも、独断と偏見でも、なんでもいいから引用出来さえすればいいのです。
そしてそこから拡張させます。つまりキッカケなのです。
キッカケのキッカケのキッカケがテーマで、それはその人の心情、ポリシー、考え方、感じ方、その他もろもろを ただキッカケとしているのです。
その人が感じたキッカケはその人のオリジナルです。そこから出されるものは当然個性のあるオリジナルな作品となるのです。
見るべきは考え方、思考
作品の出発点はあくまで具体性のない「ぼや〜」からなのですが我々脚本勉強家の見るべき点はその人の考え方とか、個別のテーマではありません。
見るべき、感じるべきはその作者の思考なのです。
「思考」とはその作者が感じたであろうテーマはどのように使われているか、ということなのです。
テーマに設定されるものとはその作者のオリジナルで、誰もマネ出来ませんし、マネしてしまうと 例外なくいいものにはなりません。なる訳がありません。
要は、テーマを決められたとして、そのテーマの使い方をどうしているか、なのです。
つまり作者の”思考”の部分をマネします。
ですがあまりこういった思考の部分は特に公表されません。たまにオーディオコメンタリーとかで一部分だけ紹介されていますが。我々消費者側には基本伝えません。
ですからなんとか既存の映像から読み解かなくてはならないのです。作者のやっている事はマネできずとも
”思考”を想像することは作品を深読みする意味でも出来ますのでやってみるといいかも、なのです。
「この作品のテーマとは一体何なのか」
その答えは決して複雑なものではないはずです。「この作品の根底にあるものはこういうことか」と意味が理解できればそれは凄いヒントになります。
テーマは「ぼや〜」っとしたものですが一貫性が必ず伴います。キッカケはハッキリしていなくても意味や方向性や伝えるべき主旨とでもいいましょうか、それはテーマから導いていますので首尾一貫しているのです。
管理者含め素人がやらかす事とは、具現化が出来ないが為に監督なり脚本家の動詞、行動の部分を真似てしまうことです。
映像作品を見て「この描写いいな」と思うとそのやっている事をそっくりそのままマネしてしまうのです。
それではいつまで経っても成長できません。
見るべきは作者の意図であり、それがテーマを探ることになるのです。
テーマが見えさえすれば、今度はそれを ”自分ならこうする” と思う事なのです。その過程で参考にしてもいい、マネしてもいい部分は”思考”であって表にでている表現ではありません。
つまり同じ表現は使わないで、自分で考えた違った表し方で同じ意味合いに繋げることなのです。見た元の作品からは決して同じような表現をしてはならないのです。
これが例題ばかり載せているシナリオ指南書が意味をなさないと思う根拠です。シナリオスクールも同じです。例題ばかり説明してその本当の意味を伝えない。あとは自分で考えろと言わんばかりなのです。
テーマそのものだってテーマになるキッカケが必ずあります。それは作者の経験だったり今まで生きてきて感じた人生観だったりするのです。あくまで出発点は自分でしかありません。
やり方は出尽くされています。我々はそういう時代に育ちました。やり方を理解する事も大事ではありますが、どうしていいか分からないときには先人たちの思考を見なければならないのです。
思考があって行動できて結果が生まれます。行動の部分はマネもし易いし分かり易い。でも思考を読み解いて自分の感じたことに転嫁出来れば、最強のオリジナルが創出できますし、クリエイターと言われる人はその仕組みを理解しています。
具体的な説明が出来ません。
なぜかというと人の感じ方、受け取り方、出力の仕方は人それぞれ、みんな違うからなのです。
そして巷では思考の部分より行動にしかフォーカスしていないのが現実なのです。
見るべきは思考であります。それは凡人の管理者含め出来ない事なのでしょうか?
そんなことはないのです、絶対に。
発想の転換とは見ている事から変えていく、見るべき所から変えていくということなのです。
今まで見ていたものとは思考ですか?
他人の行動ばかり見ていませんでしたか?
すごいな〜と思った人の思考の部分を考えた事がありますか?