走りながら考える発想法
何かを発想しようと考えるとなかなか前に進めないことがあります。
特に慣れていないことや未知の事柄に直面するとヒドイ時は頭が真っ白になります。
思考しようとしているのに思考が強制終了してしまいます。
およそ何らかのプレッシャーにさらされるとテンパります。
行動、方針を決めなければならなかったり、ひらめきアイディアが浮かばなかったり、期限が迫っていたり・・・
どうしても次のステップに行くための答えを見出さなければならない時に起こる気がします。
ことりは悩みます。
いままでやったことのない作詞を任されて、しかもいいものを作らなければいけない責任もプレッシャーとして重くのしかかります。
それが自分で上手く解決できません。
悩みまくり、授業に身が入らず先生に怒られ、シャープペンの芯を見つめ、そして歌詞ノートを閉じてしまいます。
典型的なノーアイディアの状態にドツボッてしまったことりですが我々リアルでもしばしば発生します。
こんなとき周りの人は、適当でいいんじゃないとか、視点を変えろだとか、勝手なことを言うわけですが自分で現状を打破するためには自分で何とかしないといけないのが本当のところです。
発想法に決まりも無く結論さえ思い付けば何やってもいいはずなのですが、考え込めば考え込むほど制限がかかります。
拡張させたい発想がますます狭くなっていきます。
これではいつまで経ってもいいアイディアなんて思い浮かびません。
管理者も発想法は、やっぱり苦手です。
そんな状況でも逃げられません。それだけは理解できます。
参考になるかどうか分かりませんが、管理者がよくやる方法は「歩く」ことです。
公園まで、近くの山まで、隣の駅までと思い悩んだ時にはあまり机に向かわず外を歩きます。
歩きながら物事を考えると、実はうまくいかない原因が見えてきたりするのです。
なぜそうなるのかは、よく分かりません。
たぶん運動することで脳みその血の巡りがよくなって気が付くことができるのだと勝手に解釈しておりますが、この点、ことりの悩む描写にもいえると思います。
机に向かっていれば発想しやすそうなイメージですが、実のところ体を動かした方が活性化できます。
これは走ってはダメです。歩いた方がいいのです。
よほど体力のある人でしたら別ですが走ることに集中してしまってはただのエクササイズでしかありません。
体に負担をかけず一定の時間以上継続できて誰でもできる方法として「歩く」はオススメです。
その他にも車で深夜のドライブとか、あえて問題から離れて好きなことをしてみるといった方法がありますが自分に合った好みのやり方を持っていると便利です。
そしてこれもオススメなのですが「完璧を求めない」というのもいいのです。
最初からキチンと作ろうとしないで、それこそ外枠程度に留めてどんどん次にいきます。
几帳面な性格上出来ないと思われる人もいるかもしれませんが、もし煮詰まっていたら一つの品質にこだわらないで全体を仕上げる事のみに集中します。
テキトーでもいいので、ひと通り最後までやれたらまとめて細かい修正を加えます。
これは膨大なドラマの脚本を書く場合などに有効な手段です。
大事なのは最後までやり通すことで品質は二の次で考えます。結果最終的に効率が良くなったりします。
テストの設問のこなし方に似ています。
ブレインストーミングとかもありますが複数人数集まらなくてはなりませんし、各論が欲しい時に総論の束を集めても結論に達しにくいと、管理者は思います。
でもネタが簡単な場合に仲間何人かで発想する方法は有効でしょう。
あと人に聞く方法は、ある程度発想がまとまっている場合にした方がいいと思います。
「思い付かないんだけど」状態で人に聞いてもその人は答えようがありません。
どうやら人の発想は身体の動作が止まっていると発想そのものも止まってしまうようです。
明らかにパソコンやノートを目の前にして、腕組みしながら考えている時よりも、思い付きでもなんでもいいから書き始めてった方がいろいろ頭に浮かびます。
これが「走りながら考える」という発想法です。
”走りながら”とは本当にダッシュしながらという意味ではありません。行動を走りに例えたものです。
文章に限りません。
行動を起こしているうちに思いもよらなかったヒラメキが生まれることがあります。ヒラメキに至らなくても選択肢を思いついたりします。
これが思い付く程度に留まらず実感で理解できます。
そんな工夫に自分の経験を重ねたり、うまくいっている人の思考を真似することで応用できたりします。
ぶっちゃけ毎クール放映されるアニメだってなんだって必ずと言っていいほど何かをモチーフに使っています。それを加工して見せ方を変えて作家さんの言葉として発信しています。
全くゼロの無から発想している訳ではないのです。
見本手本は探そうと思えば今の時代いくらでも転がっています。
どこを取ってどこを捨てるかはセンスが問われますが、自分の具体的な応用の発想が出来うる人がクリエイターになれるのでは、といろいろな作品を通して感じられるのです。
そして、ことりの苦悩を見かねた穂乃果は、またしてもCEOっぷりを発揮した提案をするのでした。