BEATLESS|シナリオスキル|SFを感じさせる
今回のお題は
「BEATLESS」から読み解くSFを感じさせる、です。
AI人工知能を題材にした未来の社会を描いたものです。
SFですね。
今現在でもAIという機械は存在していて進化の過程にあります。
今後、人類の進化の要となるであろうAIが進化の末にどのような状況になるのか、の一例を描いた作品です。
最初にお断りしておきますが、私はこの作品を見てみて、正直「わかりにくい」と感じました。
特に琴線に触れることもなく、心が動くような描写もあまりなく、至ってラノベチックでもあり、ある意味作者の世界観だけが突っ走っている印象を受けました。
そしてとても複雑なストーリーテラーになっています。
これってたぶんトレンドだと思われます。
アニメの原作としてラノベが多用されることに異論はありませんがラノベには他の文学モノとも違う独特の価値観もあり、それは映像としてのアニメのそれともやはり違います。
読み物としての表現と動画としての表現媒体の違いもあります。
告白すると私はあまり原作を読みません。
私は映像としてのアニメーション表現が好きなだけでおよそ媒体の違う原作は似て非なるモノ、と解釈しているためです。
実際に媒体の違う原作(およそ文字媒体ですよね)と動画たる映像には表現手法において大きな隔たりがあります。
分かりやすくいうと、文字媒体とは「読んで」感じるもの、映像媒体とは「見て聞いて」感じるものです。
例え同じタイトルでもその表現手法は180°全く違います。
故に原作モノのアニメ化において、脚本家の仕事の中には媒体の変更作業があります。
「地の文」で構成されている文字媒体を時系列に沿って連続したシーンに変換する媒体の変更はとてもセンシティブな作業です。
物語としての情報量は圧倒的に文字媒体の方がイメージを読み手に任せられる分、非常に大きいのです。
コンテンツそのものの情報量としては、アニメの方が比べものにならないくらい莫大なものでありますが、イマジネーションの部分は読み手の想像に任せられている文字媒体の方が圧倒しています。
「地の文」とは細かいディテールを読み手に任せられることが最大のメリットになります。
つまり、具体的な“絵面”は読んだ人の印象で形作られる構造なので作者はいちいち細かい描写までする必要がないのです。
故に形容詞を多用しても、その形容を具体的にイメージすることは読み手が自由に創造できるようにしてあるのです。
この場合の作品イメージとは一定ではありません。
読み手の数だけ存在します。読んだ人誰一人同じイメージを持つことはあり得ません。
ここに文字媒体の面白さ、拡張性があります。
映像媒体は、そうはいきません。
監督や脚本家が具体的な画としてのイメージを形作り、それを時系列に並べて初めて表現が適います。
読み手の想像を大多数が納得する具体的なイメージとして“焼き直し”しています。
そうしなければ映像になりません。
できあがるモノとはおよそ原作とは違う形にならざるを得ないのです。
原作をすっかり変えてしまうことになります。
さらに映像には文字媒体にはない“尺”という縛りもあります。
さらにさらに、文字媒体は読むことを途中で中断しても事後、改めて続きを読んでも理解できる構造ですが、映像ははじめから最後まで一通り見てみて意味が通る構造です。
こんな感じで映像媒体には文字媒体に比べて非常にカセが多いのです。
その代わり画として表現すれば声も載せられるし音楽も入れられる、映像自体にもクオリティが載せられます。
イメージがより具体的になって感情移入もしやすくなったりします。
文字媒体よりもより一層イメージの拡張が期待できるわけです。
私は近年のアニメーションの拡張性に魅力を感じます。
そしてそんな大きいラノベ原作をアニメ化した作品を数多く見てきて感じることは率直に「詰め込みすぎ」なのです。
申したとおり、膨大な原作を限られた映像媒体に網羅しようとすると、ひとつの表現にかける時間が短くなります。
それは見ている側からすると「端折る」結果になります。
お話が次から次へと突っ走り、感情を伝えるに必要な「間」まで盛り込む余地すらなくなります。
小説などの文字媒体の優れているところは読み手に時間のカセがないこと、読む時間や読んでみてイメージを膨らませる時間も読み手に委ねられていることです。
映像媒体はそれらも送り手側が決定して具体的に提示しなければなりません。
今回紹介する「BEATLESS」がそれに思いっきりブチ当たるとは思っていませんが終始そんな危うさを感じて見ていました。
「こんなに物語をとっちらかして、どうやって収束させるのか」と感じていました。
でも、そこんところはさすが水島精二監督の手腕でなんとか乗り切っている感じです。
いつも前置きが長くなってしまいます。
長谷敏司さんのSF小説原作です。
SFの分野に長けていて、数々の受賞経験のあるラノベ作家さんです。
アニメ版の監督は水島精二さん、シリーズ構成は高橋龍也さんと雑破業さんです。
本当に水島監督はこの作品のヒロインである「レイシア」みたいなキャラが好きなのね、と感じます。「楽園追放」のヒロイン“アンジェラ・バルザック”みたいですw
アニメ制作元請けはdiomedea(ディオメディア)です。やっぱりdiomedeaの描くキャラクターは可愛い・・・正直いうとこのクオリティで最後まで見られた感があります、あくまで私の主観です。
2018年に発表されました。
さて、
「BEATLESS」は日本の近未来を描いた作品です。
AIが進化したあげくどのような世の中になっているのか、が描かれているわけですがけっこうダークな味付けになっています。
たいがいこの手のお話しとは、人が作りしAIが人の範疇を超えて立場を逆転させようとするもの、なのですがご多分に漏れずそのようなストーリーテラーです。
AIの価値観には人の感情は含まれず数値に置き換えられる要素だけ特化して進化を遂げようとします。
人々は拡張しようとするAIに抗い本来の役割に戻そうとする、そんなお話です、ざっくりいうと。
これって描写の“落差”を利用した手法です。
どんな形かというと・・・
幸せな世界で幸せ感を出してもあまり映えません。
幸せ感を際立たせるにはその背景が思いっきり不幸でなければなりません。
描写背景と登場人物の目指すところに“落差”があって初めて価値の大きさを演出することが適います。
ですからシナリオ的には理想とする姿と真逆の境遇や環境を与えなければなりません。
そして、さもすればその負の要素に取り込まれそうになる瀬戸際で人物たちは葛藤を繰り返し、最後に打ち勝ちます。
何を勝ち取るのか、といえばそれは人としての「普遍性」になります。
あまたあるSFのストーリーテラーとはこんな感じだと思いますし、あなたが今まで見てきたSF作品もこのようになってはいませんか?
近年、リアリティとして「AI」という登場人物(?)がよく題材に使われています。
近年でもないか、SFを考える上で人類の英知を超えた存在AIがお話を左右する形はフィリップ・K・ディックの時代から受け継がれています。
この記事を書きながら気がついたのですが、この「BEATLESS」のモチーフはそれこそハリソンフォード主演の名作「ブレードランナー」なのではないでしょうか。
確か「ブレードランナー」のヒロインは「レイチェル」だったと記憶しています。
「BEATLESS」のヒロイン、「レイシア」と似ています。
人と機械たるアンドロイドが心を通わせるストーリーは、こう考えると至って王道です。
こういう発見があるから私はこのコラムを書き続けています・・・それはともかく、
今回、「BEATLESS」を記事にしようと思った訳は設定に「AI」を用いている、AIがお話を引っ張っていることに興味があったからです。
実は私もかつてそのようなお話を書いたことがあります。
それはそれは稚拙な発想でしか書けなかったのですが、いずれにしてもAIが未来予想において不可欠な存在であることは想像に難しくありません。
なんでそう感じるのか・・・
それは「なんでもあり」だからです。
「なんでもあり」だからつい使いたくなってしまいます。
しかもその一端はまさに現実化しようとしている、リアリティにも適う題材だからです。
「BEATLESS」劇中でも描かれている数々の“自動化”の姿は我々リアルで追求していることと合致するのです。
これほど便利な設定はありません、宇宙人とかよりも説得力があります。
だから書こうとするのですが書いてみた私の感想とは、
「なんでもあり」がかえって難しい、のです。
なんでも叶えられるAIという媒介は“なんでもあり”のでなんとでもデザインできます。
一見自由に発想できそうな気になりますが、これってその枠組みや秩序も含めて作者に任されている、ということになります。
それが難しいのです。
なぜそう感じるのか・・・
私たちは普段、そのようなデフォルトの仕組みまで考えて生きてきていないからです。
我々リアルに生きる人は他人に作られた仕組みの中で生きているから、なのですね。
自分で発想した仕組みではありません。
そう、この世に生まれた瞬間からです。デフォルトです。
お腹がすいた、とします。
そうしたらご飯を食べますよね。
ご飯は買ってこなければなりません。
スーパーに行けば買えますね。
買うためにはお金が必要です。
そのために働いてお金を獲得します。
この一連の流れ、仕組みは私やあなたが作り上げた仕組みではありません。
誰かが作った仕組みに乗っかっているだけです。
本当は植物の種を土に埋めて育てて収穫して・・・から始まるモノです、本来は。
それを先人の誰かが利便性を追求した形を作って、我々はその仕組みを利用しています。
その仕組みには維持するためのルールや秩序というものも含まれます。
円滑に流れなければ利用することができないからです。
題材にAIを用いることとはこの秩序の部分も確立しなければなりません。
故に「なんでもあり」とはいかないのです。
その「なんでもあり」の中に作者は秩序や枠組み、ルールなどを用いて「整合性」をとらなければお話自体が破綻してしまいます。
「整合性」とはそれこそ「理由」の部分になります。
なぜご飯を食べるのに「お金」というツールが必要なのか、それは秩序と平等性を担保するため、みたいな。
つじつまを作らなければならないのです。
お金がなければその価値に見合う物と交換するか、それ以外、むりくり手に入れようとすればそれは略奪にしかなりません。
略奪では継続性に欠けてしまいます。
「理由」の部分、つまりなぜ人はAIを使うのか、なぜAIが人の意思に逆らうのか、その部分がなければ書けないのですね。
AIが万能チックであるが故にその枠組みにはよほどの細心の注意を払って設定しなければシナリオ的には失敗します。
よくアニメでは学園モノという設定が使われます。
それは“学園”という世界には既に我々が了承している秩序があるからです。
いちいち描かなくても制服を着て登校する、みたいな常識やルールが確立されているから引用に優しいのです。
「なんでもあり」の世界観にはそういったものも作者が考えて与えなければなりません。
まあ、SFってそんな、あ〜でもない、こ〜でもない、でもこうしたい、という要素が混じり合っているから書いても読んでも面白いのですが、拡張性に優れている分、クリエイティビティが問われるものでもあるのです。
このようなSFにはもうひとつ欠かせない要素があります。
それは「戦い」です。まあ、SFに限りませんが。
何かと戦う姿がマストになってきます。
私的にバトるのは結構、誰と何と戦ってもその変遷にお話の面白さがあるし、勝ち負けが決まるので何より分かりやすい。
問題はその戦う「理由」です。
なんで戦うのか、何を勝ち取るために戦うのか、ほんとうに戦う必要があるのか・・・
そのあたりの描写が“緩い”と感じることがほんとうに多いのです。特にラノベ原作やゲーム原作は。
ちょっと話しを戻しますが、物語にエピソードを盛り込みすぎるとこの大事な部分がぼやけてしまいます。
アクションに割く時間に押されて肝心の「意味」が短縮され曖昧になってしまうのです。
この「BEATLESS」でも感じましたが、ではその理由を伝える為にどうするのかというと、
結局長いセリフで説明しなければならなくなります。
セリフで伝えた方が手っ取り早いからです。
尺を取らず、一応明確に伝えられます、あくまで一応です。
でも、セリフってほんの一瞬で通り過ぎてしまうものです。あまり人の印象に残りません。特に長文になればなるほど見ている人には伝わりにくくなります。
劇中、主人公の遠藤アラトとヒロインのレイシアが秋葉原のビルの屋上で海内遼とメトーデに追い詰められたとき、レイシアはアラトに撤退を進言します。
アラトはレイシアを信じられなくなりその進言を断りますが、そのときレイシアが見せた一瞬の悲しげな表情は、セリフでは到底適わない彼女の感情を感じさせてくれました。
このように、セリフで聞かせることよりもその意味を行動アクションで見せた方が確実に伝わります。
聞かせることより、見せて“感じさせる”ことのほうが圧倒的に情報量が大きいのです。
しかしながら2クール目の後半では“会話のやりとり”での表現が多く見受けられました。
相手が機械のAIでアクションの幅がないということもあるのでしょうが、この点がちょっと残念でした。
もっと絞り込んで、描写として見せてもらいたかった、と思います。
それでもかなりまとめられたのは水島監督の手腕に寄るところではあります。
原作がある場合のアニメ化って想像以上に難しいものです。
当然原作者の意向も尊重しなければなりませんし、実際のところ純粋に物語だけのクオリティを追求できる環境でもありません。
それはわかって見ていますが我々素人シナリオライター的にはたくさんの要素をたくさん盛り込むのではなく、ひとつの描写、ひとつの表現にこだわること、「どうすれば意味を伝えられるのか」・・・
この部分が上手くなければその先には行けません。
数々の輝かしい実績を獲得した原作者ですから、世の中から評価されているのでしょう。
でもアニメの映像表現とは似て非なるもの、文字媒体での原作通りにはいかないということは、頭の片隅に意識して書きたいものです。
いいアニメ作品とは緩急がハッキリしていますし、なんというか、意味合いを伝えるシーンはもっと「ゆっくり」見せてくれます。
せっかく作った世界観が詰め込みすぎたために観客に伝わらなければもったいない、じゃないですか。
ただ、この「BEATLESS」はそんな側面も感じつつ、きれいでスタイリッシュにまとまった秀作であることに間違いありません。
やはり絵が可愛い、直感的に目に入ってくる映像は理解を必要とするシナリオよりも口当たりがいいのです。
やはり視覚で感じることの方が優先されますね。
可愛いばっかですみません。