シナリオ脚本”直し” の理由
脚本を執筆してホン読みに提出した最初の原稿、第1稿が決定稿となることはほとんどない。
それは脚本家のアイディアと現場との磨り合わせを行った原稿ではないからである。
脚本は制作上かなり前工程である。故に後工程の事情で改変されてしまう。改変される運命にある。
だから、完成映像から見ると 元の決定稿シナリオは体を成していない。
脚本を書きかえる事を許さない脚本家もいると聞くがそれは周りの仕事を理解していない。
なぜ ”直し” になるのか
このテーマは映像制作者の永遠の問題かもしれません。
”直し” の目的はコンテンツの最適化です。ですが 映像はいろんな立場のいろんなスタッフが存在して初めて完成します。力関係も、工程順位も違います。
脚本家は映像の設計者ですから何もない所から発想するわけで、当然そこには絵描きも、仕上げも、編集も、プロモーションも介入するわけもなく、脚本を書く段階では外野はほとんど口を挟みません。
監督からの要望やスポンサーから方向性とかはあるやもしれませんが、後工程の切迫した環境に比べればかなり優遇されています。
そんな前工程で書かれた脚本は当然ながら現場とのマッチングを抜きに制作は進行できません。
生粋の脚本家大先生はホン読みにて 「簡単に直しに応じるな」 と諭す方も大勢いらっしゃるようです。
その意味は脚本家が脚本家たる理由を無くしてしまう危惧と、なんでもかんでも ”イエス” とすると作ったものが単純に壊れるので嫌がるのです。
また、プロデューサー等要職のスタッフが脚本はじめ現場の仕事に、必ずしも精通している訳では無いという現実もあるようです。
気分だけで ”直し” を言われたら それは脚本家的にたまったものではありません。
脚本家は根拠を探りつつ物語を練るわけですから、必要でもない要素を加えればバランスは崩れます。
それを脚本家は嫌がります。そりゃ、当たり前です。
ただ ”直し” の本質は最適化なので、直しの意味も理解しないで ”イエス” としては問題がありますが、基本的に磨り合わせる工程は必要なのです。
これは決定稿の後にも起こり得ます。
「決定稿なのになんで直すんだ」
と憤慨する方もおられるようですが、ここは落ち着いて、なぜ直しになったか考察しなければなりません。
客観視して、客観視できる人が脚本を書いている訳ですから、そこは怒るところか、そうでないのかは判断しないと損な気もします。
闇雲に ”直し” について嫌がる、怒ることは果たして正しいのか否かは、考えなければなりません。
プライドがある脚本家は直しを忌み嫌い、代書屋的な脚本家は直しを受け入れて書き直す という単純な2極では判断しきれないハズなのです。
この ”直し” のテーマを 「演出、絵コンテを知ろう」 カテゴリーに入れたのも意味があります。
つまり、脚本というシナリオ形式の文章を映像に加工するにあたり、どうしても文章では正しくても映像では違和感がありすぎるという状況が珍しくありません。
アニメはまだしも、実写では物理的にどうしてもシナリオ通りのセットが組めないということがあるのです。
当然そのような状況はシーンを変えないと対応できない訳です。人物の距離ひとつ変わってもセリフが変わります。
こうして ”直し” が生じるのです。何も脚本家を蔑んでやっている訳ではないのです。
その現実的で切実な問題に、第1稿も決定稿もありません。現場では、実写の場合はクランクイン、アニメの場合は絵の発注の前に解決しておかなければ大変な修正作業を後々押されたスケジュールの中こなさなければなりません。
脚本の段階で想定されていない事は実際の映像を作る前に出来るだけ詰めておきたいのが現場真理なのです。
こうして、決定稿以降も直しになったり、監督や絵コンテ、演出が直してしまう現象が起きるのです。
創作畑の脚本家サイドと切実な現実と闘っている現場サイドと整合性を保つには ”直し” しかありません。
ですから監督さんの中には
「直しを嫌がるなら、脚本家を辞めて小説家になるか、絵コンテ切れるくらいの技量を身につけるべきだ」
と言われる方もいます。
それはその通りだと管理者は思いました。
だから ”直し” に過剰なコンプレックスは 百害あって一利なしと判断します。
少し書き難いのですが、やはり優秀なベテラン脚本家の中には第1稿が決定稿になる方もいらっしゃいます。
直しを食らう脚本家は 直される分未熟であると言わざるを得ません。
それはいかに脚本家自身が書いているシナリオが クオリティもさることながら制作前提で書かれているか否かにかかってくると思われます。
後工程を無視して、決定稿さえ出せば・・・まあギャラも出る訳ですが、それでいいのか、ということだと思います。
だから、脚本家であっても演出や絵コンテについて勉強しておかなければならないし、後工程の仕事が理解できていれば 例え直しになってもより現実に即した修正が速やかにできるはずなのです。
こんなことはシナリオスクールでも、ゲストで来校したプロの脚本家さんも言いません。
せいぜい 「雨を降らすには散水車がいる」 程度です。
”直し” は敵ではありません。でも付き合い方はよくよく考えないと結果が180°変わります。
どうしても直しが嫌な方はいい方法があります。
それはいつも2稿書くというものです。
直しを想定して提出するシナリオを予め2稿用意しておきます。
使い方はホン読みによると思いますが、予め修正案があれば会議に挑めるってものです。
この方法はプロの脚本家さんも推奨していました。
どうぞ、お試しあれ。
推敲とは違う ”直し” とコミュニケーション
管理者は率直にホン読みで直すことと、脚本執筆時の推敲と何が違うのか、よく分かっていませんでした。
だって書いたものを直す修正するという意味では自発的か、他人から指摘されるかの違いでしかありません。
結局、直すのです。
脚本家自身が直す推敲は当然シナリオを完成させるために必要な工程です。自分で自分をチェックするには時間も掛りますし、最悪書き直しだって有り得ます。
ホン読みで指摘される直しの意志は他人からされるものであります。
印象としては ”手直し” と解釈しました。
直しを指示されても推敲するときみたいな根本的な改変は出来ないし、してはなりません。
直しでは何を直さなければならないのか、とりあえずはディテールです。
キャラクターの配置や物語の流れそのものは変えずにセリフの言い回しやト書きの修正をしてみます。
長くしたり、短くしたり、手直しで印象が変わらないかとりあえず努力してみます。
直しは全否定ではありません。
ですからディテールを磨く事で凌げれば それに越したことはありません。
で、
問題なのは物語そのものの流れとか、根本的な部分も変えなければならない時です。
ディテールどころでは済まない場合は困ります。
なにゆえそのような事態が生じるのか、ホン読みの段階で根本的な修正を求められるということは 単にコミュニケーション不足が原因となるケースが多いそうです。
シナリオの発注を受けた段階で脚本家とシリーズ構成、又は脚本家と監督との意思疎通に問題があったとしか言いようがありません。
更にその問題がホン読みまで露呈しないとなると ほとんど制作サイドと脚本家が作品に付いて話をしていないと言われてもしょうがありません。
そしてこのコミュニケーション不足による弊害はだいたい 「最初に言ってくれれば・・・」 的な物凄く単純な改善法で防げるのです。
大御所の大先生方は口を揃えて若い脚本家を揶揄します。
「今の人はコミュニケーション能力が足らない」 と。
その意見に反発する理由はありません。
映像制作は共同作業で成り立っています。いくら脚本家が優秀でも一人では作れないモノなのです。
そして、共同作業の中で切磋琢磨して化学反応を促し、最初の決定稿よりももっとクオリティの高い作品が世に出されるのです。
そしてこの化学反応が期待されているから脚本家が存在できるのです。
ぶっちゃけシナリオなんて、監督が絵コンテ切る段階でト書きとセリフ付けちゃえば、それで済んでしまうし、実際にそうしている監督さんを知っています。
なぜそうしないか、なぜわざわざ脚本家を設置するか、それは多数のスタッフによる化学反応を期待しているからに他なりません。
管理者もあまり人付き合いは上手くありません。ですからコミュニケーションを積極的に取りたがらない気持ちはよくわかります。
でもこれは仕事です。
やっておかなければ困るような事態に陥ることは自分だけでなく周りのスタッフにも影響を及ぼします。
脚本家はいい意味で化学反応を期待されて、その仕組みに乗っかって仕事を請け負います。
悪い影響を及ぼす為に存在してはならないのです。
ですから熱い人はケンカしてまで意見をぶつけます。
なにもケンカまでする必要もありませんが、自分の作るものに思い入れがあればそれも必然となります。
もう脚本家云々以前の問題だなぁ と管理者は感じています。
社会人として仕事をする場合、分からない事はハッキリ 「分かりません」 と言うべきで、それも早ければ早いほど対処の仕様は大きいのです。
恥ずかしい事ではありません。
こんなこと、専門サイトに載せるような話ではありません。
作品に対して遠慮していては表現も何もできません。
管理者はこの案件を調べているうちに 「そんな基本も出来ないで脚本家を よく名乗っているな」 と思いました。
話を戻せばプロットに関するような根幹の変更はシナリオ執筆の早い段階で修正しておくべきで第1稿で直すものではありません。
ということは、作品の方向性なり色なり、具体的なイメージなりは早いうちに確認して理解しておけよ、ということです。
迷ったり、分からなければその都度、答えられる人に聞けよ、ということです。
原因はコミュニケーションにあるのなら しょっちゅう制作サイドと連絡を取るべきです。
わざわざ話をするべきなのです。
くだらない会話でもその中から迷いや気付かなかった事に気付けたり、もしかしたら他の仕事がまわってきたり・・・
面倒くさいですが面倒がらずにコミュニケーションをとっておけば 持ちつ持たれつが成リ立って本当に困った時に味方になってもくれるでしょう。
それが社会の常識です。
もちろん相手に対して役に立てることがあればやってあげてください。
出来る範囲でいいので、前提としてやってあげなければ やってはもらえません。
それも常識です。