シナリオ、脚本の発想法T
シナリオはイメージやアイディアを出さなければならない。
どうすれば発想することができるのだろうか。
それは「頭に思い浮かべて」としか言いようがない。
それだけでは分からないのでクリエイティビティを考える。
シナリオにデジタルな答えはない
発想、クリエイティビティについてお話しましょう。
人はどこから、何から発想するのでしょうか。
それは何者でもありません、シナリオを書く作者さん自身から発想します。
作者が私でしたら私の中からしか発想は出来ません、あなたならあなたの中からしか発想は出来ません。
また、当たり前じゃね−か的な話ですが、
あなたならあなた以外の他の人からは、あなたの発想は出来ないと言うことです。
私でしたら私以外の他人から私の発想は出来ません。
で、実は「答え」というのもはすでに作者さんの中にあります。
私がかつて通ったシナリオスクールでは受ける講義のほとんどがいわゆる抽象論にとどまる程度の内容でした。
発想法の授業もありました。
私的に具体的な発想法を教わりたかったのですが、スクールで聞くことほとんど、発想法に限らず終始抽象論でしかありませんでした。
何でそうなのか、を考えてみて気がついた事実があります。
それはシナリオに明確な答えというものが存在していないから、です。
算数の答えみたいなハッキリとした答えがない世界なんですね。
よって曖昧な回答しか得られないのです、結果として抽象論にとどまります。
シナリオのうまい下手なんてハッキリした基準なんかありません。
英語のTOEICのような点数での評価も出来ません。
コンクールなどの評価もいたって曖昧なんですね、描写が優れている、と評価されてもそれがなんの基準に従った結果なのか、やっぱりハッキリしません。
まあ、審査員に言わせればそれなりの基準があるのでしょうが、それだってその審査員がいいと言ったから評価されているだけであって、それに賛同する人が複数いるだけであって、デジタルな基準なんかない世界なんです。
審査員だって自分の実績からこれが受けるとか、この描写は面白いとか、いいと思える曖昧な根拠を元に判断しているはずだし、ご自身の好みだってバリバリ出しています。
何が良くて何が悪くて、入賞したり、落とされたりするのかなんて本当のところブラックボックスなんです。
明確な答えのないシナリオだから明確なうまい下手も言い切れない、判断しづらい、よって抽象論で終わるしかない、ということだと思います。
で、明確な基準があるとすれば、その基準はシナリオを書いた当人にしかありません。
評価は他人がするものですが、基準は己の中にしかありません。
コンクールの審査員含めプロの脚本家だって、誰か他人を評価するためにシナリオを書いているわけではありませんよね。
自分が表現したいから書いているはずです。
その基準はやっぱり他人ではなく自分自身なんです。
これはあなたが初心者でもアマチュアでもプロの脚本家でも条件は一緒です。
キャリアや能力は関係ありません。
自分が基準です、ですから答えというものも自分の中にしかありません。
評価は他人しかできない、基準は自分でしかない
評価基準があるとするならば書いたシナリオを他人に読ませてみて「面白いね」と言ってもらえることが一番なんですが、
シナリオは書いただけじゃダメで、書いたら他の人に見せないといけないんです。
他人から評価をもらわなければなりません。
書いたことだけに満足しないで他人に見せて評価をもらいます。
公な評価基準がないシナリオだから他人に見せることをしないと成果が見えない、結果がもらえないんです。
感想でいいんです。
シナリオを書いたら必ず評価をもらってください。
シナリオに近道ってあんまりないのですが、人に見てもらうこと、これが上手くなる前提だと私は思います。
間違った思考
ちょっと注意してもらいたいことがあるのです。
自分で書いたシナリオを他人に見せるということを嫌がる人がいます。
特に女性の方に多いような気がしますが、自分の書いたシナリオを他人にみせることが「恥ずかしい」と言われます。
これってよくわからない思考です。
恥ずかしい?なんで?そんなに恥ずかしいことがいっぱい書いてあるの?とか思ってしまいます。
その恥ずかしいと言っている人って、たったひとりの他人に見せると恥ずかしいシナリオを使って大人数の観客に、しかも映像化してみせるつもりなのでしょうか。
それは矛盾でしょ。
意味が分かりません。
そういう思考は余計なものです。
シナリオが上手くなりたいのならそんな意味のない行いは即刻辞めてください。
どうでもよけりゃシナリオを書いただけで自己満足に浸っていてください。
私はそんなどうでもいいシナリオを書く人に時間と手間を割いてレクチャーしていません。
例え稚拙なシナリオであってもあなたが書いたシナリオはあなたのオリジナルです。
恥ずかしいと思えば恥ずかしいし、謙虚な姿勢で堂々として接すればそれは堂々としたシナリオになるんです。
そんなの意識次第でどうにでもなります。
だから、シナリオを書いたら他の人に見せてください、最後までちゃんとマジメにやってください。
シナリオをはじめとする創作物とは、作ったら他の人に見せるものなんです。
披露するものなんです。
他の人に見せる気が無いのならシナリオを書く資格が無い、とまでは言いませんが、なんのために書いているのかが分かりません。
他人に見せてみて、感想をもらって間違っていたところ、面白くなかったところを聞いてください。
単純にその面白くなかったところを直せば必然でいい作品になるはずです。
他人に講評をもらう効果
面白くなかったところがあったとして、でもその面白くない部分は書いている時点では面白いだろうと思って書いたわけですよね。
「面白いだろう」と思っていたその描写は、指摘されたら考え直して修正しますよね。
その考えを変えた「答え」というのはどこから出たのかといえば、作者自身からですよね、
感想を言ってくれた人から答えそのものをヒントとしてもらえたかもしれませんが、
でも再考して結論を出すのはやっぱり書いた人本人でしかないのです。
故に「答え」というものはすでに作者さんの中にあるのです。
でも普段は気がつかないんです。
自分で書いただけでは気が付けないのです。
気がつかないからしょうがありません、だから他の人に聞くしかないのです。
聞いて気がつけば答えは自ずと出てきます。
自分が持っているものに気づくには、書いたシナリオを人に見せることをすれば気がつけるんです、気がつかせてくれるのです。
発想法とはすでに作者さんの中に存在します。
発想法やアイディアそのものは他人に聞いてみても、それは他人の発想でしかありませんから使えません。
しかし他人はあなたの作品を見せることであなたの発想の「足らないところ」を気がつかせてくれます。
気がつかないところを気がつくことが出来ればそれがあなたの 『発想法』 となります。
日常からヒントをもらう
あなたの日常から抽出するやり方があります。
そのネタというものは絶えずあなたの周りでいつも起こっているはずです。
でもそれって普通にしていては気がつけないものでもあります。
ネタというものはあえて目を見張らないと気がつきません。
そして気がついたとしても、たいがい2秒で忘れてしまいます。
それでは仕事になりませんので脚本家の方でも気がついたらメモできるようなアイディア帳を持ち歩いていたりします。
よくアンテナを張れ、なんて言いますがそれは頭の上を素通りするものを素通りさせないで捕まえろ、ということです。
脚本家の大先生だってその仕組みを理解されていますから、ちゃんとメモを取ったりスマホに書き込んだりしています。
つまり意識していないと通り過ぎるものなんですね。
シナリオを書くならば気がつかないと書けないのです。
気がつくことが出来ればシナリオは書けるようになります。
絶えずメモをせい、という話ではありませんがいざシナリオを書こうとしたときに困らないような施策は考えておいた方がいいのではないでしょうか。