Re:CREATORS|シナリオスキル
今回のお題は
「Re:CREATORS」(レクリエイターズ)から読み解く理由というバックストーリー、です。
理由、訳、事情、原因、いきさつなど、言い方は数あれどお話にはそのようなバックボーンがなければシナリオは書くことができません。
バックボーンを幾重にも追求した形とは、やはりお話、エピソードになります。これがバックストーリーといわれるものです。
理由の集合体、それがバックストーリーということです。
つまり、我々がシナリオを通じてお話を作るにはその中に内包する複数の“エピソード”が必要なのです。
物語を作るための理由付けの部分に作り込まれた世界観や設定や独特の比喩表現などを付加させた集合体まで図るとすると、単なるキャラクターの動機などに留まらず“バックストーリー”になります。
それはつまりリアリティとして、世界はいくつもの何らかの理由があって成り立っているから、なのです。
原則論ですね。
無論、シナリオを書く上で理由付けの部分にそこまで深度を求めるかどうか、というのは作者の裁量になります。
作者がキャラクターを使って表現させるにあたり、その行動理由においてストーリーまで必要とするのか否かは「こうするべき」という判断基準がありません。
ただ、理由の部分を追求すると、訳やいきさつのような単純な物事に収まらず理由自体がストーリーに成らざるを得ないのです。
そんな典型的な作品が今回紹介する「Re:CREATORS」です。
あおきえい監督はよくもまあこんな手の込んだ作品を作ったものと感心させられる作品です。
その、あおきえい監督率いる新進のアニメ制作会社のTROYCAが2017年に発表したオリジナルです。
原作者は広江礼威さんです。
広江さんといえば、「BLACK LAGOON」が有名ですね。片渕須直監督作品としてアニメ化されています。
シリーズ構成はあおき監督と広江氏の共同になっています。
主人公は「水篠颯太(みずしのそうた)」、高校2年生のオタク少年でイラストを描いています。
たぶん主人公とするならばこの子がそれに当たると思われますが、もしかしたら世界を滅ぼさんとする「アルタイル」がメインかもしれません。
けっこう複雑なストーリーなので、この人がメイン、という解釈も難しくなっています。
颯太はきっかけと収束の立役者であるものの、物語中終始ほかのキャラクターの後ろに控えている立ち位置であんまり主人公らしく人物造形されていません。
いっぽうのアルタイルも颯太のガールフレンドであったシマザキセツナの傀儡としての存在で、悪役の中心人物であるもののやっぱりヒロインではないと感じます。
なんでメインキャストが見えにくいのかといえば、それは登場人物がそれぞれメインを務める物語の主人公やキーキャストたちだからです。
あらすじはとてもボリュームが大きいので書けないのですが、ざっくり説明すると・・・
舞台は現代の日本で東京です。
ある時、颯太は何の前触れもなく突然アニメ作品のメインヒロインと邂逅します。
物語の人物の現出というあり得ない事態に遭遇します。
一番はじめに遭遇したのがアニメ「精霊機想曲フォーゲルシュバリエ」のメインヒロインである「セレジア・ユピティリア」でした。
まあ、こんな感じで劇中で設定された架空の物語の登場人物や主人公たちが次々と現出してしまう、というお話です、ざっくりいうと。
物語から現れたキャラクターたちを「被造物」と呼称されています。
その物語の数たるや、実に9タイトルにも及びます・・・アルタイルは筋が別でそれも入れると10タイトル?かな?
さて、
この作品はこのようにバックストーリーのある登場人物がわんさか出てくるのです。
それも全てカテゴリーやスタイルの違う作品の人物なのです。
しかも被造物らが現れたリアルの世界には当然原作者もいます。
劇中では「創造主」とされています。
原作者が自ら作ったキャラクターと相対するシーンもあります。
被造物たちには原作者が与えた人格も備わっているので原作者は自分の想像して書いた人物とやりとりすることになります。
このあたりの着眼点がとてもクリエイティビティに長けていると感じた作品です。
なんで「クリエイティブ」なのか、は最後にお話ししますね。
出てきたキャラクターたちは自分たちが現れた意味を悟り自らの意志に従い敵味方に分かれてしまいます。
当然、主義主張も物語によって違うし、その物語の中での立場も引き継いでいて、アルタイルに賛同し破滅者側につく者と破滅をくい止めるメテオラ側とに分かれて戦いを始めてしまいます。
被造物たちは物語の中での能力や特異性そのままでリアルでも振る舞いますから強大な力を使って破壊もできます。
そしてそれぞれの物語での存在理由も引き継いでいます。
なんでこんな手の込んだ設定にしたのか、といえばそれは・・・
ひとえにキャラクターの“個性”を見せるためであると思われます。
そう、理由やいきさつとはその人物の個性につながるからシナリオには絶対に必要な要素なのです。
必要で追求すればこの作品「Re:CREATORS」のようなバックストーリーの塊みたいになるのですね。
本編劇中で被造物たちの行動には必ず自分の所属していた世界で経験したことが原因や訳になっています。
不遇な境遇を与えられたキャラクターは原作者を脅してみたり、まがねちゃんみたいに創造主を殺してしまいます。
それはなぜそうするのか、という理由の答えをバックストーリーに求められているのです。
ただ、やはり本編は本編であり、理由の部分であるバックストーリーの描写の加減は限定的です。
本編を上回ることはありませんし、本編ほど細かく描かれていません。
あくまで行動理由やディテールに留まっています。
意外と単純な要素しか使っていません。
キャラクターのスタイルと能力と性格、それにある程度の境遇にすぎないのですね。
先ほど申した「あおきえい監督の手の込んだ」とは、設定まで必要とするバックストーリーを載せても反映されるもの、引用できる範囲は極めて限定的なのです。
にもかかわらずそこまでやっちゃったのがある意味「凄い」作品なのではないでしょうか。
最近よく私は「木」の構造に例えていますが、「Re:CREATORS」本編が木の幹とするとセレジアやメテオラたち被造物の所属しているそれぞれの物語は幹から生える「木の枝」的な位置付けになります。
枝は幹を超える太さにはなりません。
でもそんな枝でも描こうとすればそれぞれ木の幹になれるようなポテンシャルの高いバックストーリーを“わざわざ”作っているのです。
見ている分にはあまり実感わかないかも、ですが枝に使われている程度のバックストーリーにもちゃんと物語としての設定や手間がかけられています。
世界観設定はもちろんのこと、キャラデザ、タイトルロゴ、メカデザイン、アクション設定、それらに関わる個別の演出などなど・・・
想像するだけで「めんどくさい」のです、作る側からしたら。
その「面倒くささ」が「面白さ」につながっています。
いくらでもスピンオフが作れそうです。
面白さを作るための手間暇はどうあるべきか、という問いにディテールの徹底という答えを持って表してあるのがこの「Re:CREATORS」です。
それに、けっこうアニメ制作チックであります。
2クールの後半は特にそうですが、制作関連の業界ネタが多用されています。
そこんところは業界筋の人にはウケるかもしれませんが知らないとちょっと興が冷めてしまいます。
それでもシナリオに関してはかなり重要視している描写もあり、「やっぱり物語はシナリオだよね」と感じさせてくれます。
そう、いくらキャラデザが可愛くても、メカデザインがかっこよくても、演出にキュンときても、あくまでディテール止まりであり、それを載せるシナリオがヘタレでは何も伝わってきません。
物語があってそれらが生きてきます。辿るお話がなければ感情移入もできません。
被造物たちの世界は本編ほど深く描かれていませんが、その深度を予感させてくれるところまではちゃんと作り込んでいます、これが凄いところだと思われます。
まあ、ここまでは一人で書ける範囲を超えていますしそこまで我々素人シナリオライターが考える必要もないでしょう。
でもストーリーインストーリーは、手間はかかりますがひとつでも盛り込むとお話がグッと面白くなる可能性を秘めている手法であることは間違いありません。
理由の探求がシナリオの要です。
何か、何でもいいのですがキャラクターに「こんな演技をさせたい」とするならば演技そのものよりも「なぜそうするのか」ということを主眼に置かなければならないし、それがなければあなたの描きたい描写が適いません。
あくまで意味があって演技が成立します。意味の中身が理由になり得る、ということですね。
必要ならば単純な理由に留まらず思い切ってキャラクターを掘り下げてバックストーリーを設定するのも一興かと思われます。
ただし、そうとうめんどくさいので覚悟してくださいね。
なぜこの「Re:CREATORS」がクリエイティブなのか、お話しします。
ヒロイン?かもしれない悪役の「軍服の姫君」ことアルタイルは亡くなった原作者シマザキセツナの無念として現出し、恨みの念で創造主の世界を壊そうとします。
アルタイルの意思はシマザキセツナの直接的な意思ではありません。
あくまで負の部分を無責任な二次創作者の手によって拡張された架空の意思です。
ところで架空と現実って何が違うのでしょうか。
我々リアルに生きる人だって知っている人物全員と四六時中顔を合わせていることはありません。
一日24時間、ほとんど目の前に直接いるわけではありませんよね。
目を合わせていない時間、その人と会っていない時間、そのようなときに我々はその人をどうしているかというと、「想像」しているはずです。
もしかしたら想像すらしないかもしれません。
それはその人との「距離」に由来しますがいくら距離が近くともやっぱり一日の大半は「思い描いている」にすぎないのです。
この「想像すること」に架空も現実もあるのでしょうか。
現実とは単に会うことができる、存在を確認することができるだけであり、いつもやっていること「想像」について存在の有無はあまり関係ありません。
イメージが具体的かどうか、だけなはずです。
また想像することで現実と確実にイコールでもありません。
勝手に想像してその人のイメージを考えていますし、得てして的を外すのも人の想像力であります。
故に「勘違い」もあります。
あなたの大事な人を思い出してみてください。
その大事な人、距離が近くてもその人が、例えば生きていようが死んでいようが、物理的に会うこと以外あとは全て想像上での存在でしかありません。
それは我々が創作として登場人物を考えることと、現実の人間を思うことと、やっていることは同じなのです。
例え大事な人が亡くなっても「思いの中に生きている」という解釈もします。
想像主たる原作者たちは自分が想像した人物に会います。
それって「もし自分の作ったキャラクターと話ができたらどうなるのか」という妄想に基づいて考えられています。
人物造形は作者マターであり選任事項です。ですからトコトンまで「どんな人」なのか考え倒しているはずです。
当然作者にも感情がありますから反映します。
「できるなら会ってみたい」と思うのが作家の思考でしょう。
その妄想をそのまま描かれています。
本当に人の想像力は無限に拡張できるもの、なんですね。
その想像力は例え死んだ人でも甦えさせることができます。
クライマックスでアルタイルは死んだはずの原作者、シマザキセツナに出会います。
それは架空の世界だから、人の考えた想像の世界だからできるのですが、セツナはアルタイルに原作者としての意思を諭します。
このシナリオは主人公である颯太が考えたものです。
颯太は自分の知っている、感じているセツナを想い「セツナならばこうする」という想像でシナリオを描き事態の収束を図りました。
もちろんセツナはもうこの世にいないので想像するしか存在を示すことができません。
でも、先ほども言いましたが現実にいる人と架空の想像の中にいる人物と何が違うのでしょうか。
目に見えるか見えないか、だけです。実在していても目の前にいなければそれはやはり想像するしかないのですね。
そしてその人の存在価値は想像したからといって変わるものではありません。
なんらやっていることは変わりがないのです。
思い描くことをすればそこにはちゃんとその人の存在が確立するのです。
人物が確立できればそこから物語が編めます。
それをやってのけられるのがクリエイターという人たちです。
ここに目をつけた広江さんやあおきえい監督はやはりクリエイターであると感じさせられました。
創造主が思い描いた末の答え、「Re:CREATORS」=作者からの応え、なのではないでしょうか。