この世界の片隅に|シナリオスキル
今回のお題は
「この世界の片隅に」から読み解く史実、です。
2016年に公開された劇場版アニメで成功した作品です。
公開当時、クラウドファンディングで資金を集めたことでも話題になり、興業もかなり長い期間公開されていました。
数々の受賞作でもあります。
公開当時、劇場へ見に行こうと思っていて結局行かなかった私ですが、その後も長らく見ようとしていて見てなかった作品です。
なぜかというと、こうしたアニメ作品は優秀すぎるから、です。
私見であまのじゃくな点があるのですが、ジブリもディズニーも、それらって私的によほど明確な理由がない限り観ようと思いません。
それらは「良くて当たり前」だからです。
良くて当たり前の何が悪いのか、そう、何も悪くありません。
その何も悪くないのが私的に面白くありません。
故に当たり前なことしか書けないので、面白く感じないのでわざわざ観ようと思わないのです。
いいものであることは理解しますし、認めます。
今回の「この世界の片隅に」もいい作品でした。
でも発見することはあまりありませんでした。
至って平坦で起伏の少ないストーリーだし、正直言うとシナリオスキルとして発見は感じられませんでした。
でもこの作品の評価ってすごいんですよ。
他人がいいという作品、ユーザビリティに長けた作品、ということでやっと観るに至りました。
シナリオ的には本当に書くことがありません。
申した通り、平坦で変化も少なくあまり明確なテーマ的なものも感じませんでした。
どなたか批評に書いてありましたが、本当にNHKの退屈なドラマを見ているようでした。
ただ、この物語が事実、という点を除けばこのブログに上げることもなかったと思います。
そう、事実なんですね。
だからお題に「史実」としました。
この手の作品は起伏がどうだの、モチーフがどうだの、は関係ありません。
事実だから意味があります。
描いて残す意味があります。
監督、脚本は片渕須直さんです。
片渕須直さんと言えば、私的に「BLACK LAGOON」を思い出します。
アニメファンなら言わずと知れたリアルバイオレンス・ガンアクションものです。
もう古い作品ですが、今回の「この世界の片隅に」とは別世界の作品です。
まっっったく違います。
「この世界の片隅に」が片渕監督と知って「嘘だろ」と思ったところです。
そう、作風は180°違います。
無論両者とも原作ものなので世界観が違うのも当たり前なのですが、こうも違うと違和感しか感じませんでした。
監督名を知らない方が良かったかも、です。
ただ、作品の品質はどちらもいいものであることに違いありません。
「この世界の片隅に」に描かれていることは事実であり、我が国日本の近代歴史を象徴するような史実です。
戦争と核爆弾と広島です。
主人公の「北條すず(旧姓浦野すず)」は終戦の前年、広島の呉に嫁いできました。
シナリオ的に、この「すず」が特別な存在としては描かれずにいたって平凡なキャラクターで、すずの目線で物語は推移します。
そこにはかつて日本人がどう振る舞っていたのかが精密に描かれています。
だから今の若い子にはかえって新鮮に写ったことだと思われます。
昔はそうでした・・・といっても私から見ても1.5世代前の時代です。
ただ私の世代は、多かれ少なかれ戦争の時代の話は体験者から聞く機会がありました。
今の人にはなかなかないですよね、あえて聞きに行く事をしなければ知る由もなければ知る必要もありません。
私の人生の実感として、昭和一ケタの人って本当に強いのです。
「すず」は大正末期か昭和のはじめの生まれです。
それはこのような苦しい時代を死なずに生き続けてきた証なのですが、なぜ人として強いのか、その理由が「この世界の片隅に」には描かれています。
それも精密に描かれています。
片渕監督は時代考証に、特に力を注いだそうですがリアルライクに描いています。
私には違いが分かりませんでしたが広島弁と呉弁の微妙な差も表現したそうです。
徹底して当時を再現しました。
ただ、画そのものはすずのイメージを踏襲してか適度に緩く描いています。
なんとなくほんわかした柔らかいデザインでまとめられています。
それがかえってリアルさを際立たせています。
すずは戦争末期、広島に原爆が落とされた当時は呉の嫁ぎ先にいたので直接原爆の被害に遭わずに済みました。
でも呉も東京もその前から空襲に遭い焼け野原にされています。
自らも右手を失い、家族である義理の姉の幼い子供を亡くしました。
何ら変わらない日常でいきなり非日常を実際に経験したのです。
これって架空ではありません。事実なのです。
当時の人間の価値は今ほど充実していませんでした。
人の生き死になんて今の方が何十倍も高いのです。
それでも人への思いやりは当時の方があったのではないでしょうか。
原爆を落とされた直後の広島の様子も片渕監督はちゃんと描いています。
今まで手を繋いでいた平凡な母子が原爆を落とされてどうなったかが詳細に描かれています。
片腕がもげて、ガラスが突き刺さった母親が子の手を引いて必死に逃げようとします。母は力尽き座ったまま絶命します。
子は母にたかるハエを払いながらも手を離しませんが、やがて悟ってさまよい出します。
たまたますずと出会い、すずは他人の子でも受け入れ呉に連れて帰ります。
当時は人の価値は低くとも、こうした優しさもちゃんとあったのだと思います。
それでも「生き続けようとする姿」、強い人間を描いています。
この事実にシナリオもクソもありません。そういうことがかつてあったから書いて残す価値があるのです。
故にシナリオスキルとして私から申し上げることなんてない、のですね。
二度と戦争を起こさない、のようなステロタイプを申すつもりはありません。
ただ、すずの生活の上には当然日本の国としての意思がありました。
その意思は広島に原爆が落とされるなんてことは想像もしなかったでしょう。
今、コロナ渦の時代、それと似たことが実際に起こっていることを見逃してはいけません。
原爆を落とされることを予想できなかった国、想像力に欠けた指導者の姿が今の日本にも重なります。
その想像力の欠けた部分に気付くのが、決定打を浴びてからでないことを切に願うばかりですが、こんなことも「この世界の片隅に」を観ていて思いました。
「事実は小説より奇なり」と申します。
面白さを追求するばかりではなく、こうした史実もシナリオとしてちゃんと検証して書くことにも大いに価値があることなのです。