シナリオ、脚本の構成法T
構成とは、シーンを組み立てて順番を決めることである。
組み立てられたものが物語となる。
故に構成は執筆の初めから関わってくる。
その物語はどうやって組み立てて、どのように見せて伝えるのか。
構成は総論と各論
人からシナリオってどんなもの?とかシナリオってどんな作りになっているの?と聞かれた場合、こんな感じで答えると思います。
シナリオって起承転結だよ、
日本的な物語の構成は序破急だよ、
ブロードウェイの舞台の作りは三幕構成だよとか・・・
こんな感じになると思われます。
それは間違いじゃございません
でも間違いです。
シナリオを書く側のユーザビリティで言えば間違いです。
シナリオってどんなもの?と聞かれるシチュを想像すると、シナリオを知らない人がシナリオについて聞いています。
もしかしたらこれからシナリオを書こうとしている人が聞いたりします。
そこへ持ってきてシナリオは起承転結だよ、と教えて書けるのでしょうか、理解できる人っているのでしょうか。
使えない 「呪文」
私は起承転結という言葉を聞いたときに全く理解できませんでした。
普通は何それ、となって然るべきです、理解できません。
実際にシナリオを書こうとした場合、執筆段階においてこの起承転結という言葉は本当に使えないのです。
その昔スクールの通っていた時にシナリオの構成法として起承転結についての授業が全部で3回もありました。
一回2時間の3回ですから6時間、三週にわたって教わりました。
でも、いざ書く段階になってこの起承転結がまったく役に立たなかったんです、使えなかったんですね。
あくまで私の私見ですので私の理解力がなかったのかもしれません。
アホだから?否定はしません。
でも実際に書くことが出来ませんでした。
もっと言うと起承転結では大雑把すぎるのです。
それはそれは起承転結という言葉を知らないのと同じくらい大雑把なのです。
そして私はこの起承転結をどうやったら執筆に生かせるのか、ホントに長い期間悩まされました。
今でこそ偉そうにこうしてあなたに語っていますが、本当に長いこと悩まされたんですよ。
そうした苦悩を経て、わかんないから自分でいろいろ吸収して、そして出された結論が・・・
起承転結、序破急、三幕構成などのシナリオを代名する言葉とは、
出来上がったシナリオを俯瞰したときの観測でしかない、ということです。
つまり、シナリオを書く段階の話ではなく、出来上がったシナリオを見たら起承転結になっていた、というものです。
実際には、起承転結風になっていた、というものです。
シナリオの構成が起承転結ということと、出来上がったシナリオが起承転結風になっていること・・・
これって同じ意味に聞こえますか?
結果から作り方を求めることは生産という意味では常套手段でもあります。
でもそれは工業製品みたいな同じものをたくさん作る場合のお話です。
やってみればお分かりになると思いますが、起承転結はシナリオの執筆段階で書く話でもなければ、構成法の具体論でもありません。
ましてや面白いシナリオの仕組みとかでもありません。
創造して、組み立てて、面白いと評価されたシナリオを端から見たらだいたい起承転結風になっていた、といった程度のものです。
書くために必要な要素でもありません、究極の抽象論です。
その大雑把でざっくりとした起承転結という言葉は書こうとした場合に全く貢献しないのです。
ですから私はこの起承転結という呪文のような言葉が嫌いです、理由は使えないからです。
こんな使えないことを覚えたってしょうがありません。
評論家になりたいのであれば人に対してそのように言ってもいいのかも知れません。
でも私たちはシナリオを書きたいのであってそれとは目的が違います。
プロの脚本家のセミナーなんか行って聞いてみてもけっこうな頻度でこの起承転結を乱発してお話になっています。
私はそれを聞いていて「もっと使える話をしてくれ」と、お金払って参加しているので怒りすら感じてしまいます。
起承転結と聞いただけで、「あ、こいつテキトーに話して時間潰してるな」と思ってしまいます。
もう一度伺います。
あなたは起承転結と聞かされて、それでシナリオが書けますか?
少なくとも私は書けません。
そして実際にそういった起承転結を乱発する脚本家だって、起承転結を意識して書いてはいないのです。
プロの脚本家が執筆するときにはもっと価値の高いもの、精度の優れたものを見据えています。
あなたがこの起承転結どうこう思って頂いても構いません、使えると思うなら使ってください。
ただ、間違いなく言えることは、起はこして、承はこうして、転はこう書いて、結はこうする的な発想で面白いシナリオが書けるはずがありません。
私は違います、こんなんじゃ絶対に書けません。
ましてやスクールの授業みたいに起と承と転と結をバラして説明されたってどんだけ執筆に生かせるのか、本当に謎です。
実際にシナリオを書いてみるとやっぱり一つの物語なので最初から最後まで繋がっていないとダメなんです。
その繋がりにシナリオの価値があるのです、見せ方と言ってもいいでしょう。
唯一起承転結で使えるところといえば起と承と転と結がくっついているところだけです、それだって抽象論の域を出ませんが、
ですからくっついているその狭間に面白さだったり、構成というものの工夫が凝らされていて一つの物語として価値を生み出します。
分解したら元も子もなくなってしまいますし、各パーツの解説はしても、くっつける解説はなぜか誰もしません。
プロット程度なら使えるかもしれません。
くっつける方法を教えて始めて構成法となるのではないでしょうか、と私は思います。
スクールの在学中に受講生に向けられたアンケートがありました。
内容はシナリオについて、一番何を知りたいのか、何が分からないか、という問いかけでした。
回答で一番多かった意見が 「構成法が知りたい」「構成のやり方が分からない」 でした。
そりゃそうでしょう。
教えていないんだから。
起承転結を持ち出して、バラして説明しただけで終わっているのだから。
構成が分からなければ、一言でいい方法があります。
それは、
映画を見ることです。
映画を見れば構成がそのまま描かれています。
実際の映像構成とは
シナリオの構成するための要素を起承転結に頼らないでお話ししましょう。
まず導入部があります。
お話ののっけですね、ファーストシーン、ツカミの部分です。
この部分って本当に大事で、観客がこの先も映像を見たいか、見続けるか判断される重要なパートになります。
これに失敗すると観客が離れていきます。
いくらクライマックスが素晴らしくても、いくら美しい女優さんが出演しても最後まで見てくれなくなります。
テレビならチャンネルを変えられてしまいます、映画館から出て行ってしまう人もいるでしょう。
クライマックスよりも導入部のほうが重要だったりします、どっちも大事なのですが。
最重要なパート、導入部
導入部は大きく分けて二通りのやり方があります。
一つはなで型の入り方、もう一つは張り手型の入り方です。
なで型とは、ゆったりした入り方です、テンポも早くありません。
例えばこんな感じです。
むか〜しむかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました、おじーさんは草刈りに、おばーさんは川へ洗濯に行きました・・・
的な入り方です。
むか〜しむかし、ですから 「いつ」 を伝えます。
あるところに、ですから 「場所」 を伝えてます。
おじいさんとおばあさんが、ですから 「誰」 を伝えます。人物ですね。
このようにいつ、だれが、どこで、という舞台設定から順序よく伝えてから物語を始めるやり方です。
基本情報を伝えることを一発目に入れていますよね、ちゃんと説明してからお話を進めていきます、極一般的な理路整然とした導入部ですね。
ただし、このなで型の入りをする場合、なるべく早い段階で物語を動かさなければ、観客が飽きてしまいます。
展開を変えるとか、目を見張るような光るシーンを入れるとか、なんらか工夫をしなければ観客が待っちゃうんですね、待たせてしまいます。
なで型の入りが悪いと行っているわけではありません。
実際にこのようななで型の入りの作品はたくさん目にします。
そこへ持ってきてなかなか説明が終わらない作品も見受けられます。
そのような映像を見ていると、確かに飽きてきます。
次の展開が連続ものの第一話を超えるような作品は、私だったら第二話を見ることはありません、NなんちゃらKに多いと感じます。
とても地味な入り方がなで型の入りです。
対して張り手型とは対照的です。
のっけからド派手な映像を観客に見せつけて一気に引き込みます。
そのド派手な映像になで型のような説明は一切ありません、ビジュアル的に意味すら分かりません。
いきなり前触れもなく説明もなく度肝を抜くようなアクションだけ見せつけて観客の興味を一気に引き込む入り方です。
これが張り手型の入りです、張り手、つまりは突然ひっぱたくような突発的な入り方です。
張り手型の導入は詳細とか説明なんて後回しです。
とにかくいきなり打ち上げ花火みたいにどっか〜ん!!とアクションをぶつけます。
見た観客は「なんだなんだ、この爆発はなんなんだ!?」という印象を持たせることで後に繋ぎます。
個人的には張り手型の入りが好きですね、見ていて楽しい。
このように入り方一つとっても役割として観客がこの先を見てもらう、見てもらわなきゃ困る、といった構成が必須となります。
入りでしくじるとその印象って後々まで引きずってしまいます。
それでは最後まで見てもらえませんのでそれぞれの特徴を理解してお話を始めなければなりません。
こういった大人の事情もシナリオに求められる要件に入ります。
やはり、映像は人に見てもらってナンボのものですからとても重要ですし、入り方でおよその作品の印象が決まってしまいます。
同じ物語でも入り方次第で全く違う作品になることだってあります。