映画を見よう
映画を見るべし。
なかなか映画館にわざわざ行って、お金を払って映画を見る事は慣れていないと面倒くさいものではあるのだが映像に携わる者として身につけたい習慣でもある。
その理由の一つが、唯一といっていいほど簡単に出来うる”感じる”場であることなのだ。
映像を見て何かを感じる事は、家のテレビでも出来そうなものだが、実は違う。
家のテレビと映画館の整った設備の環境下では伝わってくるものがケタ違いなのだ。
他に人が簡単に、視聴覚的に感じる事ができるものといえばライブくらいしかない。
それはしょっちゅう見れるものでもなければ都合よく選べるわけでもないのだ。
映画をたくさん見ることの意味とは
「映画を浴びるほど見ましょう」
とは先人の脚本家の大先生が口を揃えたがごとく我々に説いています。その意味とは見た映画からヒントを感じ取り自分の作品のクオリティを上げなさい、ということです。
つまり ”感じて覚えろ” ということです。
それもなるべく名画と評される昔の作品が役に立ちます。
正直管理者もそんなに名画と言われるものを しかも浴びるほどは見ていません。理由は簡単で見ても面白いと感じない、刺激が足らない、退屈、時代背景が古すぎて今一つリアリティに実感できない・・・などなど、要するにお金払ってまで見る価値を感じていないんだと思います。
でもこれではプロの脚本家にはなれません。
なれない事はないと思いますが つまんない浅い物語しか書けない脚本家になってしまうでしょう。
問題はその映画の ”見かた” にあります。
映像のプロフェッショナルとして見る視点、つまり今までの観客としての視点がダメなのです。作家としての視点が欠けているとでもいいましょうか。
我々は視聴者として、観客として映像を見て楽しみます。カタルシスの解放を味わって満足して映画館を後にします。それが観客としての目的ですので。
その視点で感じるものは「面白かった」「つまんなかった」「クライマックスは泣けた」「あの展開はないだろ」とかさまざまな感想です。
作家の視点とは、感想で終わらせません。批判、評論程度で見た映画を終わらせないのです。
しっかり(ちゃっかり)作家として消化するまで考察しています。
自分の感性と相談して取捨選択しています。
タイプの違うシーンがどこに配置されていたか、
お話としてどんな構成をしていたか、
面白かった所はどこに配置してあったか、
つまんなかったところは「自分ならこんなシーンにしたら面白い」と具体案が思い付くか、
挙げたらキリが無いものでもありますが、いいところ悪いところ全部ひっくるめて消化吸収しています。いいところは拡張させて「自分ならもっといいものに出来る」と吸収して、悪かった部分は「自分ならこうした展開で面白くできる」と消化します。
つまり、観客していないのです。
こんな映画の見かたをしていたら、たぶんつまんないでしょう。
感情移入できるシーンですら協調せずに客観視しているわけですから。
感情移入シーンを傍観して分析しています。でもこれが作家の視点です。
なんの為、誰の為なのか、
それは自分の作品を見てくれる観客の為、自分が発信するもののクオリティの為、作家としての自分の為であります。
そしてなぜ映画でも過去の名作がいいのか、についての理屈は簡単で、”オリジナルに近いから” ということです。
これは我々が理解できなくても知っておくべき事実として、現代に出回っている映像コンテンツの全ては過去作品の焼き直しでしかない、ということを認めなければなりません。
大昔に映画産業が世の中に登場してから、お話しを作って役者に演じさせて観客を楽しませる手法は既に先人たちが全て開発し尽くしています。
開発したものとは人間の普遍性の写し方です。
あなたがどんなに頑張っても、人が面白いと感じて画面を見続ける行動の分析はとうの昔に終わっています。
そして現代の我々はそんな作品のコピーの焼き直しのコピーを見て育ちました。
つまんないモノはいくらでも発想出来るかもしれません。
映像の価値とは多くの観客が面白いと感じてナンボの世界ですから、理論的には確立されて、その応用された作品が ”新しい” としているだけなのです。
古い映画にはその原点があります。
しかも大昔の作品でも現代に残っていて見ることができます。
我々のやれることとは、原点に近い作品から自分の感性に応用できるものを見つけ出して、コピーじゃつまらないから新しい要素を加えて現代の観客にも楽しんでもらえる作品を作るしかないのです。
残念ながらアニメだけでは多くの人の納得が得られにくいので、映像の解釈を広げて歴史を遡ると、古い名画を見倒す結論に辿りつくのです。
「アニメじゃダメなの?」と管理者もそう思いました。
ダメってことはないのですが、明らかに歴史が浅くて応用するにも題材が少ないのです。
つまり ”やりにくい” のです。
アニメの変遷を語ると長くなりますので省略しますが、ストーリー的な拡張性をアニメに持ち込まれたのは、つい最近からでしかありません。
悪役に個性を持たせた作品だってガンダムの時代ぐらいからでしょう。それまでのアニメは善玉と悪玉がいて、弱きを助け悪しきを挫く、そんな単純で稚拙なところから発展してきたわけです。
それにアニメーションの映像も端から見て「キレイ」になったのも、それこそつい最近です。
見た目が重要なアニメの世界で、まともな見た目になってからほんの数年しか経過していません。
それこそアナログ放送が終了して、デジタル彩色が主流になり、画面がビスタサイズになってからようやくです。
なので、物語担当としては実写からヒントを貰った方が拡張しやすいのです。
映画を見て得るべきものとは
作家でもないのに、いきなりは出来ないと管理者も思いますので、映画を見て気を付けるべき点、アニメに応用するために役立つ点を列記します。
クドいようですが、楽しむための映画鑑賞ではないことをお忘れなく。
作家視点で映画鑑賞する
楽しむための映画鑑賞じゃないので、一人で見に行きましょう。
誰か連れて行ったら観客目線に切り替えましょう。お連れさんがかわいそうです。
作家の視点で鑑賞するにはボッチが一番です。けっこう楽しめますよ。
そしてボッチのあなたが ”面白い” と思った所があなたのオリジナルな部分です。
大事にしてください。大事にするということはその ”面白い” を他人に譲るな、ということです。
評論家がなんて言おうが、友達からダサいといわれようが眼中にありません。
あなたの個性が ”面白い” って言ってるのですから自分を疑わないでください。
大人が見ても耐えられる作品にしなければならない
アニメは子供向け・・・という時代はだいぶ消えつつあるような気がします。
いいことです。確かにアニメは子供向けがルーツですのでその需要は少子化が極端に進まない限り今後もなくならないでしょう。
でも考えてみて下さい。幼児向け、児童向け、子供向けのアニメでも劇場に連れて行くのは親御さんです。
家でテレビを見せるのも親御さんがチャンネル権を握りしめています。
ですので 事これからの子供向けアニメは「大人の鑑賞」にも耐えられなければ観客視聴者を納得させられません。
子供が喜んで、なおかつ大人も退屈しない作りにしなければなりません。
映画のストーリーテラーを観察して、どうすれば子供が楽しめて、どこをいじれば大人も「ほう」と言わせられるのか。
アニメではジブリ作品が成功していますが、それだけしか成功しない訳ではありません。
今見た映画からオリジナルな大人も子供も楽しめる作品が作れないでしょうか。
脚色出来ないものでしょうか。
リズム、テンポをみよう
やはりリズム感、テンポ感は実写(特に洋画)にかなわない所があります。
昨今のアニメは・・・認めたくありませんが実写(洋画ですよ)の方が完成度が高いといえましょう。
最近でもスタッフや原作が話題になっていて楽しみに見たゲーム原作アニメ作品において、このリズム感、テンポ感が狂っていて非常に残念な印象を受けることがありました。
あえて作品名はいいませんが、アニメ化作品を作るにあたり監督はじめ上層部の感覚の貧しさには目を覆いたくなります。
個人的に好きなスタッフ陣だったのでとても残念なのです。
管理者の感想はともかく・・・とにかく作品を通してのリズム感、テンポ感は目に見えないところですが非常に影響を及ぼします。
一つは ”間” のとり方です。
更に往々にして アニメ作品のしでかす構成失敗は ”詰め込みすぎ” と ”空きすぎ” です。
どうもこのあたりは脚本家だけの問題でなく、いろんな所のパワーバランスが働いて生じる「弊害」なのでしょうけれど、そのあたりハリウッドのジェリーブラッカイマーとかは巧みに構成しています。この映像バランスは今後アニメの脚本家にも求められて然るべきな点であります。
解放されよう
映画鑑賞の最大の目的は「カタルシスの解放」です。
いくら作家目線と言えども見終わって満足していれば、それは「カタルシスの解放」がなされたということになります。
映画館から出てきて何か感じませんか?そう、物凄く感覚が研ぎ澄まされているはずです。
つまんないと感じると映画館から出てきて疲労感しか感じないのですが、いい(気に入った)映画を見終わるとなんだか街の雑踏も心地よく耳に入ってきませんか?そんな感覚の時に聞こえている他人の会話に気を付けて下さい。きっといいセリフのネタになります。
セリフだけじゃありません。人の動きもなんだかゆっくりに見えたりします。人物描写のチャンスです。
これは研ぎ澄まされているときにしか感じられません。