絶対外せないカメラアングル
絵コンテ、演出の仕事とはシーンの具体化である。
シーンのカット割りを決めたり、キャラクターの演技を付けるものである。
シナリオを基に実際の映像を決めこんでいく難しい仕事なのだ。
シナリオの段階では曖昧でもよかったものでも、絵コンテ、演出はそうはいかない。
それを知っていなければ、シナリオは絵に書く以前の餅に過ぎないのだ。
シーンは動いている
シナリオ執筆時に我々は何を考えてシーンを思い浮かべているのでしょうか。
それは、たぶん、”静止画” なのではないですか?
イメージの段階ではどうしてもそうなると思われます。
まず静止した絵面を柱に指定してからその静止画が今後どのように展開するのかを考えてト書きに書き入れて要所にセリフを加えていきます。
そしてシナリオとしていくのですが、その静止画から発想されるものとは止まったシーンがこれから動き出すような書き方になってしまいます。
管理者もそのようなイメージの描き方しか分からないので、そんな風になってしまうのですが、それはちょっと違う気がします。
映像はあくまで時間に沿って流れています。
イメージすべきはこの流れの一部分なのです。
リアルで動画を撮影するとしましょう。
そのシーンの被写体はもともと止まっていたものが、撮影を開始した直後に動き出したのでしょうか・・・
答えは否となります。
人通りを撮影したならば、人物は動いていたはずなのです。
無論、電車の発車シーンみたいなものは止まっていた被写体が発車ベルの後にゆっくりと動き出す、ということもあるでしょう。
でも、ことキャラクターに関しては「よ〜い、アクション!」と号令が掛って動き出す訳ではありません。
監督の号令はリアルではありませんし、あるわけありません。
なんとなく映像の撮影現場をイメージしがちですが、シナリオはそんなの加味しません。
つまり余計なことなのです。
事象は常に動いて変化しています。
それを切り取ってシーンと考えるのがシナリオの仕事なのです。
症状の原因としては・・・
ひとつは管理者みたいに想像力の欠如が招くもの。
ひとつは”こういうものだ”という共通概念、意識の刷り込みによるもの・・・
そして静止画から始まるシナリオは欠陥品なのです。
具体的な症状としては・・・
説明から入る、
ストーリーテラー(語り口)のつまらなさ、
長い前置き・・・
ぜんぜんいいことありません。
この現象はシナリオ初心者で無くても起こり得るのです。
実写ではあくまでリアルライクなので繁華街の雑踏シーンなどでもエキストラを動かしてから撮影します。そこに写る者は動いている途中からキャメラに入りますので違和感がありません。
それに実写はデフォルトで動いている雰囲気まで自動的に写りますので編集でも演出出来てしまいます。
一方アニメでの素材はご存じ、絵、画(”え”と読んでください)でしかありません。
この絵や画は”静止画”なのです・・・当たり前ですが。
静止している絵を少しづつ変化させてパラパラマンガのように重ねていきます。
重ねて初めて動いているように見えます。
アニメの演出が難しいのは、派生するものがもともと止まっている1枚の静止画であること、その静止画は必ず動く前提で書かなければならないことなのです。
実写は今、動いているもの、人を写します。その絵面には雰囲気込みで説得力のある映像が基本的に担保されています。
アニメはこれから動く映像を想像で調整しなければなりません。その想像の幅は雰囲気、空気感といったものまで作らなくてはならないのです。
パラパラ漫画でもそこまで設計しないと観客に伝わらないのです。
結果的に重ねて動いた動画になるのですが、そもそも絵コンテ、演出家が一発目に目に入るものとは、”静止画”なのです。
従って止まっている所からイメージしてしまいがち・・・なんだそうです。
そうすると不自然な演技を付けてしまいます。
つまり、板付きの演技になりがちなのです。
静止画の後ろは考えやすいとして、静止画の前でどうなっているか、は想像で書くしかありません。
その想像が出来ないのです。
と、いうわけで想像できないでは済まされないので、
シナリオ執筆時での気を付けたいところとは、シーンは絶えず動いていて、動いているシーンのどこを切り取って描写するか、なのです。
シナリオでのシーンの構想は、あくまで動いている、流れている空想のイメージから切り取らなければ整合性に苦しむ事にもなるのです。
なぜ静止画ではいけないのか、それは物語とは動いているもの、流れているものだからです。
演者の動きには法則がある
我々脚本勉強家でも動いているシーンを思い浮かべる事が重要となります。
少なからず、これから演技を付ける前提で書くシナリオでもあるので全く無視して書ける訳でもありません。
動いているシーンを想像するにあたり、ただ無作為に役者が動いている所からではなかなか想像し難いと思います。
そこで、リアルで根付いている観客目線の法則(勝手に名付けました)を利用します。
演技を見せる場合に、どのように動いたら観客に対してどのような印象を与えられるか、ということに法則性があるのです。
まさしくカメラアングル、フレーミングをどうしたらいいか、ということなのです。
皆さんに試してもらいたいことがあります。
心のフレームを想像してみてください。手で人差し指と親指をL字型に互い違いにしてフレームを作って覗きこんでみても構いません。
なんでしたら、今見ている液晶テレビの画面を眺めてもいいです。
そのスクリーンや画面は四角く切り取ったフレームです。
当然、それなりの広さがあります。
被写体は無秩序にそこに写っているわけでありません。
観客の印象を考慮してフレーミングを行った結果、登場人物の配置を決めています。
フレーミングと観客に伝わる印象をざっと並べてみます。
・アオリ(下から上を見上げる映像)=強いもの、強靭なもの、パワフルなもの
・俯瞰(上から下を見下ろす映像)=強者が弱者を見下ろす、バカにする、客観性、説明的
・アップサイズ(フレームいっぱいに顔をアップで写す)=キャラクターのディテール、表現の誇張、強迫、威圧
・ロングサイズ(人物を遠目で写す、身体全体がフレームに納まる)=客観的、説明的、群衆などの物量を表現
・速い=怖い、強い、危ない、軽い、かっこいい、そそっかしい
・遅い=悠長、イラつき、重厚、間抜け、落ち着き、丁寧、繊細
・画面に向かって右側=強い、偉い、上役、上位、強力、器用、攻め、革新的
・画面に向かって左側=弱い、平凡、下、下位、のろい、軸、守り、保守的
・画面の上=上位、強い、大きい
・画面の下=上の逆
・右から左へ行く映像=強いものが弱くなる、レベルが下がる、衰退、後退、流れ落ちる、自然
・左から右へ行く映像=弱いものが強くなる、サクセスストーリー、成長、変化、逆らう、抗う、抵抗
これだけでも知っておくとイメージの想像の仕方が見えてくるとは思いませんか。
セリフなんか無くても、フレーミングだけでこれだけ表現できるんです。
今まで静止画しか思いつけなかったものが、少なくとも意味を持つ動いているシーンになるのです。
なぜ、このような効果が存在するのでしょうか。
それは人間の特徴に由来するのです。
君のハートは左側!
このタイトル、なんか昭和臭漂うアイドル歌手の題名みたいです。
ですが、それが上記の本質、事実なのです。
人間の心臓は真ん中についているのではなく、左側に付いているのです。
この事実が生理現象として視覚にも影響を及ぼすのです。
もう少し紐解いてみましょう。
人の利き手は右利きが多数なのはご存じの事と思います。
なぜ、右利きが多いのか、それがこの心臓の位置に由来しているのです。
たぶん心臓が右側にあれば、左利きが大多数となっていたことでしょう、そんな人はいません・・・たぶん。
人の生理として、大切な物は守ろうとします。これは理屈ではなく本能です。
ですから、左側は守ろうとするし、右側で払おうとするのです。
剣と盾を持つとしたら、左手に盾、右手に剣となります。
なので左は軸として動かずじっとしていて守りに徹し、飛んで来る矢を器用な右手で落とすのです。
それだけではありません。
陸上競技のトラックも左回りになっています。
これは左側を守る生理に準じています。
遠心力の影響から守るために右回りで無く左回りになるのです。
転んで最初に地面に当たるのは守るべき左側でなく、右側になるようにしてあるのです。
カメラフレームに話を戻しますと、人の生理に従って見えるものにもそのような特徴があるのです。
実際に上記の法則性を無視した場合にどのような事が起こるかというと・・・
観ている人=観客は違和感を覚えてしまいます。
つまり、見ていて気持ち悪く感じます。
別に気持ち悪い映像を見ていなくても、気持ち悪く感じてしまうのです。
どんな気持ち悪さかというと、左手でお箸を持つような感覚って言ってわかるでしょうか、違和感とともに不器用さしか感じません。
左利きの人にフォローしておきますが、別に左利きがおかしいと言っているのではありません。左利きの人は本来動き難い左側に器用さを兼ね備えています。
これが人間の凄い所でひとつの原則にも応用が利くように作られています。
だから左利きの人には右利きに無い才覚がデフォルトで備わっています。
管理者の印象ですが左利きの人は才能のある人が多いように思います。行動もさることながら、思考も器用なのでしょう。少し羨ましいのです。
でも左利きの人も100%左に徹している訳ではないと思います。ご飯の時は右、とか、鉛筆を持つ手は右とか・・・現実社会となんらかのアジャストして、それこそ器用に使い分けているはずなのです。
このように心臓の位置による視覚の印象の違いは大昔からエンターテイメントに根付いています。
舞台で ”上手” と ”下手” という位置づけがあるのをご存じでしょうか。
”上手” とは観客席から舞台に向かって右側を指します。
”下手” とは 同じく 左側を指します。
この位置づけも舞台という仕組みを作る上で、人の心臓の位置を考慮した視覚感覚に従って作られました。
ですから・・・
・上手=寛大(器用で受け入れられる度量が深い)、大きいもの、強いもの、舞い降りるもの
・下手=守り、防御、弱い、未熟、虐げられるもの
という印象を観客に与え、
・下手から上手=上昇志向、登る、遅い
・上手から下手=流れていくもの、落ちるもの、速い
という演出効果を違和感なく観客に伝える事が出来るのです。
管理者は古典演劇に詳しくありませんが、能の舞台もそのように作られているそうです。
考えてみれば、歌舞伎や大衆演劇の”花道”が舞台に向かって左側に作られているのも納得してしまいます。
こうして何もガイドラインも何も無い所から発想するよか、この仕組みに乗っかってイメージした方が格段に分かり易いのです。
イメージし易いのです。
それは日常のありとあらゆる所に応用されている人の生理なので、よ〜く見渡せばシナリオに利用できないなんて事はありません。