文句、批判は飯のタネ
生きていて、日々感じるネガティブな感情、「文句」や「批判」。
理屈でなくどうしても感じてイラっとする感情は人の性質上、物凄く印象に残る。
それはうっとうしい以外の何物でもないのだが、見方を変えるだけで商売にも発想にも使える。
何か発想しなければ前に進めないシナリオにおいて、これほど行動に直結する感情は、他にない。
その文句、仕事になる
脚本家、脚本勉強家たるもの、文句、批判の精神が無ければなりません・・・
別にクレーマーになれ、という意味ではありません。
クレーマーは最悪です。
それはなぜかというと、身勝手な行動しかしないからです。相手を意識しない連中が余計な行動をとりたがるだけなのです。
行動に意味や価値がありません。あさはかな人間のやることです。
文句をぶちまけて、それで終わり。
当然文句を言われる方も、それなりに原因があるのでしょう。その点は今後の課題としていただいて、
我々は文句や批判を感じなければいけません。
そして、それで終わってはいけないのです。
この点がクレーマーとの”差”になるとともに、クリエイティビティに繋がるのです。
普通の一般人として日々感じる感情、文句、批判、そうじゃね〜だろ的な感情は、もう一歩思考を巡らせると、仕事の基の発想やそれにまつわる行動のモチベーションになるのです。
そしてなにより大事なのは、文句を感じたその後です。
それは自分の意見を考える事、発言すること、「自分だったらこうする」の各論を考えることにあるのです。
この、”後” を抜きにするとただのクレーマーでしかありません。
生産性は皆無です。
しかしクレームを感じたなら、その後に自分なりの意見を考えて発信する事は、その人のオリジナルアイディアかつ問題解決スキルになるので、仕事になり得る可能性があります。
仕事の観点から申しますと、世の中問題を解決することで仕事が成り立っています。
「お腹が空いた」 という問題を 「お腹いっぱい」 にするのがレストランや食堂であり、問題を解決した対価としてお金をもらいます。「おいしいものが食べたい」という欲求も満たせば更に高い対価を貰えます。
例を挙げればキリがないくらい問題の解決、解消が人の世の仕事となるのです。
それは我々が日々感じた文句や批判とリンクしないのか、そんなことはありません。
皆さんが感じたその目線(文句や批判)は仕事の基になるのです。
クレーマーと呼ばれる人は、その貴重な感情をネガティブに垂れ流しています。
脚本勉強家は、そんな無駄な事をしていてはいけません。
プロとして、発信者として、クレーマーの様な稚拙な表現しかできないのではダメなのです。
そして感じる事を続けていなければなりません。
で、
ここまでがビジネス的視点です。
世の中のクレームや文句、批判を抽出して、お金に転嫁する仕組みを考えることで事業化が出来るようになるのです。
脚本勉強家はシナリオや物語の専門家として、本人が感じたオリジナルの文句や批判はどうにでも応用できる素晴らしい感情なのです。
オリジナルとはシナリオにおいて必須ですが文句や批判はオリジナルになり易い要素を必ず含んでいます。
人それぞれ感じる”温度”が違うのです。
しかも如実に違います。
同じ事象、そうですね〜
電車に乗っていたら、途中で電車が遅れて仕事に間に合わない、という事象が起きたとします。
同じ電車に乗っている人の文句やクレームは一定でしょうか。
答えは否となります。
当たり前ですが、電車に乗っている人は目的も時間的余裕も、その重要性も何もかも違います。
仕事に間に合わない人が他にいても、連絡して都合を変えてもらえたり、多少遅れても構わない相手だったりします。
境遇が違います。
よって、電車が遅れて仕事に間に合わない人の感情はオリジナルになる可能性があるのです。
その人特有の感情になるのです。
管理者みたいにシナリオスクールに通っていて、管理者が感じた文句や批判は他の生徒さんも感じるでしょうか。
感じていても、それでも辞めずに頑張っているかもしれません。
管理者と同じ行動は取るかもしれませんが、取らない可能性の方が大きいと思います。
このオリジナルかつ印象深い感情をシナリオ作りに転嫁します。
転嫁の仕方は、それこそ何にでも応用が出来てしまいます。
キャラクターの性格に付加してもいいし、物語の流れの一部としてもいいし、葛藤を描く場合にもうってつけです。
特に葛藤は、本来こうしたいという感情を邪魔するもの、事象ですので、応用が簡単に描写できます。
もうそのまま使えます。
ここでも脚本勉強家として気を付けたいのが、邪魔しただけでは未完成、ということです。
葛藤で言えば、邪魔する事、阻む事が目的ではありません。
阻まれたもの、事象をキャラクターがどう乗り越えるか、乗り越えられなくてどうなったか、を書かなければ物語として成立しない、面白くならないのです。
ですから、文句、批判は感じるべきですがそこで終わってはならず、「自分ならこうする」という主観が必要になるのです。
キャラクターが葛藤した時に、その後の展開を用意しなければ成立しません。
クレーマーの例えばかりで恐縮ですが、奴等は物語が完結しない前提で文句を言っています。
しかも立場を乱用して行動しています。
なので終始「言ってもしょうがない」の世界でのたまわります。
端から見れば、そうとうおバカな行為にしか写りません。
それが分からない鈍感な人々なのです。
だから感性を求められる脚本勉強家はこのようなレベルで留まってはいけないのです。
何か自分が、何でもいいのですが文句や批判、クレームやネガティブな感情を感じたら、それがチャンスなのです。
決してネガティブのままにしてはいけません。
それは飯のタネに成り得るのです。
爆発するモチベーション
これは管理者の実体験です。
行動の源がネガティブ発信だと、相当やる気が起きます。
つまり、恨み辛みが大きければ大きいほどモチベーションに繋がるのです。
そういう体験、皆さんもありませんか?
これが残念ながらポジティブ発信のモチベーションと比べると比較にならないのです。
希望や願望、夢に向かってGO!なんかより、あの野郎〜ムカついた、仕返ししてやる、見返してやる、やっつけてやる、の方が断然やる気になるのです、残念ながら。
これは人の生理なので仕方ない事ですが、ポジティブな意志から行動に繋げたいと思っていても、現実はもっと原始的、野生的、本能的なのです。
人間は問題を感じてどうすれば解決できるか、を読み取って文明が発達しました。
ですから問題=ネガティブを感じないと事が進みません。
その行動に至る感情はネガティブであるほど発揮されるように人にはデフォルトで備わっています。
そこにはきれいごとは必要ないのです。
人の尊厳すら凌駕してしまうのです。
戦争がいい例です。
人を殺してまで成し得たい感情ってどういうものなのでしょう、管理者は分かりません。
でも当事者は感じて行動したのです。
人を殺してまで叶えたい意志とそこに至る感情が存在したのです。
脚本勉強家は、そこを洞察しなくてはなりません。
どんな名作にも理由が至る所に存在してキャラクターを後押しします。
その感情の強さに行動の解釈や範囲が決まるので、極強力な感情を描写するにあたり、残念ながら綺麗事では物語にならないのです、つまらないのです。
もちろん綺麗なさまを描写して感情移入を図る手法だってオハコなのですが、子供を殺された親の心情とその後の行動は想像するだに壮絶なものに成らざるを得ません。
人間はネガティブに反応します。それもとても敏感に感じてしまう生き物なのです。
たぶん、生存本能とか防衛本能とかが絡んでくると思われますがここでは触れません。
反応が無ければシナリオは成り立ちません。
ですからこういった人の心理を利用することも考えておかなければならないのです。
その発信元はあくまで作者自身なのですから、その人が感じた文句や批判はそれで終わらさずに応用、転嫁して書く原動力とするべきなのです。
管理者も実践者です。
このサイトだって、シーニャプロトンテールコミュニティだって、基を辿ればシナリオスクールに対する不満でしかありません。
管理者のように感じて転嫁できれば仕事にだって応用出来るのです。
文句、批判は感じなければなりません。
感じない方が幸せなのかな、と思った時期もありましたがそれは間違いです。
逃げてはいけません。
何のためか、自分の為 なのです。