心が叫びたがってるんだ|群像劇の構造
今回のお題は、
「心が叫びたがってるんだ」から読み解く群像劇の構造、です。
大変ヒットしたので見られた方も多いのではないでしょうか。
「心が叫びたがってるんだ」通称「ここさけ」は2015年に公開された劇場版オリジナルアニメです。
原作は“超平和バスターズ”です。監督の長井龍雪さん、脚本の岡田麿里さん、作画の田中将賀さんの3人組です。
「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない」、“あの花”を作った3人です。
私は個人的に「とらドラ3兄弟」と勝手に命名しています。
この意味が分かる人は相当のアニメ通です。
そう、この3人はこれまでにもタッグを組んで素晴らしい作品を世に放ってきました。
この記事を書いているのは2019年の秋です。
ちょうど今、超平和バスターズ名義の3作目である「空の青さを知る人よ」が劇場公開目前で、至るところでプロモーションを目にすることが出来ます。
脚本の岡田麿里さんの実家が埼玉県の秩父方面ということもあるのでしょう、ロケ地には西武線の横瀬駅周辺が舞台となっています。
西武鉄道がタイアップしていて、プロモーションの電車を走らせたりしています。
で、この3人の作品にはなんとなく共通点が見えます。
スタイルがわかりやすいのですね。
そのひとつは“群像劇”であること。
複数人数のキャラクターがぶつかり合ったり、交わったりしてまとまった末に伝えたいことが載せられている仕組みです。
この作品にはトレーラーに「青春群像劇」と示されています。
“青春”の部分は分かりますよね、若い人が中心になっています。若い人が集まるところと言えば学校ですよね。
いわゆる“学園モノ”はこの作品にかかわらず多くのアニメのトレンドでもあります。
なぜ、学園モノが主流なのか、それには理由があります。
“青春”は分かるとして
“群像劇”の部分を構造を読み解くと・・・
バラバラの個がまとまらなくてはなりません。
組織やグループや、思想や枠組みと言った何らかの“器”が必要なんです。
学園モノであるなら学校、社会劇であるなら会社や結社、思想なら宗教団体や信仰など、登場人物の共通した意思あって何かに属していないとまとまることが出来ません。
それもお互いにコミュニケーションがある程度自由にやりとりできる環境が必要不可欠なのです。
ただ単にシナリオを書こうとする場合でも無意識でこう考えるはずです。
「舞台はどこにしようか」と。
その舞台として何らかの器が必要なんですね。
学園モノの場合は、そういった舞台を考える上で非常に都合がいいのです。
学校へ行くことに特別な理由付けがいらないんですね、学校って。
そして大概の観客は学校に行った経験があります。
デフォルトで認識されている舞台設定です。
お話に入ろうとするときの敷居がとても低いのです。
誰でも知っているし理解もされているのでいちいち「その人物はどうしてそこにいるのか」を説明する必要がありません。
舞台となる特定の器を特殊なものにしたとして、そこに至る経緯を物語とするお話もたくさんありますが、超平和バスターズはそこに比重を置かずに平凡な舞台設定の中で非凡な物語を作りました。
これも作者のスタイルです。
特に人物そのものの感情を見せたいのならば、感情面を表現の主とするべきであり、それ以外は比重、映像の場合“尺”を取るべきではありません。
こういった合理的な理由に学園モノって都合がいいんです。
群像劇、というだけあって登場人物の人数もそれなりに多くなければなりません。
「あの花」の時はキーキャストが6人、だったかな?
今回の「ここさけ」では4人になっています。
群像劇にしては少ないと思われるかもしれませんが、この4人はそれぞれ学校という枠組みの中でも属している組織が違っていたりします。
その個別の属している組織の中でも葛藤が置かれていて、それを克服しないとまとまれない、という構造になっています。
ですので4人でもそれぞれひとり一人にぶら下がっている人物があるので、数えてはいませんがそうとうな登場人物が物語に関わっています。
こうして“群像”が設計されています。
それは何も特別なことでもありません。
我々リアルの生活においても一日24時間、様々なシチュエーションの中で生き続けています。
家族、学校、会社、友達、同僚、仲間、親子、兄弟、親族などなど・・・
群像劇とは単にリアルの生活をモチーフとして、全部は語りきれないのであるパートの「顔」を切り取って描いているのです。
全部は語りきれないのですが、唯一許される人物がいます。
それが「主人公」です。
「ここさけ」場合で言えばヒロインの成瀬順です。
順の境遇だけは詳細まで描かれるし、ヒロインである以上描かなくてはなりません。
それこそ先ほど例に挙げた生活環境そのままを物語に表します。
その人物に描くべき要素の数とは物語の序列に従って薄くなっていきます。
例え群像劇であっても「誰のお話」なのか、と言えば、それは成瀬順のお話、ということになります。
だから順に関してはとことん掘り下げます。
どんな経験をしたのか、いかなる感情を持ったのか、どんなリアクションをしたのか、何を感じたのか、何を感じているのか、
こういったディテールにおいて超平和バスターズは非常にうまい、のです。
まあ、こういったことは見れば分かる話なのですが、もうちょっと作品に寄ってみましょう、堅い話ばかりでもつまらないですし。
順の特徴、人物設定を見てみると“負”の感情がベースになっています。
特に彼女の場合は、病気とするならば「失語症」です。
「失語症」という単語は劇中に出てきませんが「人としゃべることが出来ない」ハンディキャップを抱えています。
本当に極単純なログラインで「ここさけ」を語るならば、
「しゃべれない女の子がしゃべることが出来るまでのお話」と言うことになると思います。
本当に極単純ですが、これが主人公に与えられた“変化”です。
非常に単純です。
でもそこからお話というものは拡張していくように作られるのです。
何でしゃべることが出来なくなったのか、どうやってしゃべることが出来るようになるのか、どんな問題があって、どうやって克服したのか、そして誰が手助けしたのか、どんな出来事が変化を促したのか・・・
アンチテーゼとテーゼの間に群像劇として関わる人物たちが存在します。
特にアイディアとして「歌ならばしゃべることが出来る」という設定は賞賛に値します。
これが岡田麿里という脚本家の実力です。
さすがです。感服しました。
一つの方向性だけじゃなくて視点を変えています。
こういったことっていつも我々がやっていることではありますが、普段「気がつけない」んですね。
他にも読み解ける部分も感じました。
順は音楽劇のアイディアをケータイの文字入力で相手役の坂上拓実に伝えます。
その内容とは至って稚拙なものでした。
それこそ昔話みたいに「むか〜しむかし、あるところに・・・」から始まるような文章です。
でも、これって私的に「あ〜、創作ってこれでもいいんだ」と感じたところです。
シナリオ執筆のセオリーとして、テーマを決めて、ログラインを考えて、大枠の話の筋を考えて、プロットを出して・・・な〜んて私もサイトなどで解説していますが、
「本当はあまり関係ないんだ」、と思える描写でした。
何かの“型”にはめる必要なんて本当はないのかもしれません。
シナリオに書くべきものとはやっぱり感情なんです。
その感情っていたって直感的なものでもあるんですね。
感じた感情をそのままアイディアとして出力することに本来形なんて関係ありません。
アイディアなんて出たもの勝ちです。
だから型にはめようとするのではなく、そんなのは後回しにして自分の直感を信じてとりあえずでも紙に書き写すことがシナリオの第一歩なのではないでしょうか。
こういったことも「ここさけ」を見て感じました。
最後に岡田麿里さんの特徴についてひとつ。
彼女のシナリオには必ずと言っていいほど感情のぶつかり合いが描かれます。
「ここさけ」では殴り合いまで発展はしませんでしたが、やっぱりありました。
ターニングポイントで、順は拓実を相手に廃墟のラブホの一室で感情を爆発させます。
そしてその台詞にはいままでの順のイメージと真反対な言葉の数々が綴られました。
これが岡田節です。
こういった描写の「やり方」は応用できます。内容を同じにしてはパクリとなりますが「やり方」であるならば応用になります。
是非参考にして頂きたいと思います。
そして岡田麿里さんは著書の中で「ここさけ」制作中の逸話として、長井監督とのバトルを記されています。
ご自身が書くシナリオ同様、長井監督とはそうとうやり合ったみたいで、けんかばかりしていたそうです。
タイトルも「叫びたがってるんだ」にした経緯も長井監督とバトった結果だそうです。
でも「けんかするほど仲がいい」とは超平和バスターズにこそ言える言葉です。
新作の「空の青さを知る人よ」も楽しみです。