「灰と幻想のグリムガル」から読み解くシナリオ脚本スキル

灰と幻想のグリムガル|シナリオスキル|人の死

今回のお題は

 

「灰と幻想のグリムガル」から読み解く人の死、です。

 

アニメでは定番的なRPGゲームのような世界に放り込まれたリアルの人のお話です。

 

ご存じない方に簡単に説明すると、登場人物は何かの拍子に独特の異世界に飛ばされます。

 

登場人物はその世界のルールに従って切磋琢磨するというものです。

 

お話しの展開はコメディであったりシリアスドラマだったり、バトル物であったりサクセスストーリーになる場合もあります。

 

このあたりは作者の空想の世界観によるところであり、作者の多様な個性が直接関与するものでもあります。

 

ですのでこのようなファンタジーはシナリオ的に、安易にどうこう言えない側面があります。

 

(作者の個性が強いのでシナリオについても本当のところは作者に聞いてみないと分かりません)

 

ドラマの舞台がゲームの世界で繰り広げられるといった基本構造で、その中での仕事はおよそ兵役だったりします。

 

敵の巣窟であるダンジョンがあったりして対戦相手のレベルが分かれています。

 

初級から徐々に強い敵と戦い進めていって最終的に一番強い敵“ラスボス”にたどり着きます。

 

その過程に冒険の要素だったり、人の成長物語が描かれます。

 

戦って勝って報酬を得て生活を維持するような人間社会の仕組みがあります。

 

人間社会の物語を独特の世界にて表現されるものです。

 

なんでそのような作品が定番になっているのかというと・・・

 

このようなファンタジーやミステリー、サスペンスはとても需要があります。

 

人気があるので上手くハマると売れるジャンルです。

 

だからシナリオを知る上でも無視できません。

 

世界観を創造して人を描くことをするとリアルの世界より際立ちます。

 

また世界観は作者が都合良く設定できます。

 

都合良く、とは語弊があるかも、ですが現実世界では非現実とされていてカセとなるものを外すことができます。

 

効果が期待できる反面シナリオ以外にシナリオを載せる世界観の創造が要となります。

 

つまり、めちゃくちゃ手間が掛かるということです。

 

シナリオだけでも大変なのに、シナリオを載せる世界観まで考えなければなりません。

 

あえて世界観まで考えなければならないのか、というとそれが比喩表現になるからです。

 

リアルをリアルで描いても面白くなりにくかったり、リアリティに欠けたりするのですが、世界観自体を変えてみるとつじつまを合わせることが出来たり、感情を浮き彫りに出来たり・・・。

 

表現がハッキリするんですね。

 

この “灰と幻想のグリムガル” は極単純な人の普遍性を丁寧に、また美しく描かれているので紹介してもいいかな、と思いました。

 

十文字青さんのラノベ原作ものです。

 

最近、十文字青さん原作の「Feary Gone」を見かけました。

 

この方の世界観は本当に独特かつ完成度が高い。

 

アニメは2016年に放映されました。

 

アニメーション演出家である中村亮介さんの監督、脚本作品です。

 

いつも感じますが演出家出身の監督作品は物語性が高いんです。

 

絵描き出身監督より優れていると私はどうしても思ってしまいます。

 

絵の方は原案者が白井鋭利さんでラノベのイラストを描いていますが、アニメのキャラデザは細居美枝子さんです。

 

細井さんは「アサルトリリィ ブーケ」のキャラデザをやっておられますね。

 

絵のデザインについて、たいがいラノベのアニメ化にはラノベで挿絵などを描く原案者と、アニメで描く時のキャラクターデザイン作画監督が違っています。

 

そして、これはわたしの経験的私見なのですが・・・

 

なぜかアニメ版の作画の方が優れています。

 

ハッキリ言いますとアニメの作画の方が可愛くかっこよくまとまっています。

 

そしてこのグリムガルでも細居さんの絵にとても魅力があります。

 

体の線や目のデザイン、雰囲気はおちゃらけていません。

 

前述で絵描きより演出家出身の方が作品的に優れている、と申しました。

 

でもアニメは特にそうなんですが、最初に目に入るのはどうしても絵のクオリティになります。

 

お話しだけではただの文章なので見た目面白くもなんともありません。

 

お話しのイメージを的確に伝えるにはやっぱり魅力的な絵が必要になります。

 

それでも表されるものは物語なので、やっぱりやっぱりシナリオにもクオリティが求められます。

 

やはり見た目とシナリオは車輪の両輪です。

 

実際にアニメの異世界モノでも、出演声優たちにインタビューで

 

「このアニメの世界観ってどんな魅力がありますか?」

 

なんてAT−Xで聞いていたりしますが、声優たちが答えに困るような作品もたくさん出回っています。

 

ラブコメなんかは世界観の設定にあんまりポリシーなんかは感じられないものもあります。

 

その点この灰と幻想のグリムガルは作家性の高いクオリティの高い作品です。

 

絵の話をしたのでついでに言えば、

 

この作品は美術が美しく描かれています。

 

アニメでは “美術” とは背景のことを指します。

 

動く人物などが載る背景の絵のことを言います。

 

ひとつ、アニメを評価する部分でこの美術の品質を見るとよく分かります。

 

どうしても登場人物やガジェットなど、画面の真ん中に写っている絵で評価しがちなのですが、実はこの背景を見るとその作品のクオリティが判断出来ます。

 

いい作品はこの美術にも手を抜いていません、というかキャラデザと同等かそれ以上の品質が確保されています。

 

逆に言えば美術が疎かな作品は総じてシナリオも大したことないし、物語性も浅く面白くありません。

 

ただのイチャラブコメディや可愛いだけのキャラクターがエッチな描写を繰り返して意味も無く動き回るような、中学生の好むような作品が目立ちます。

 

要するに美術に配慮していない作品は、作品としてちゃんと投資をしていない「手抜き」と言える訳です。

 

日本のアニメ制作会社には美術専門の会社もたくさんあります。

 

それがピクサーなどと違うところです。

 

外国の制作会社も背景美術の担当が居ると思いますが、日本のアニメの品質はこのような部分にも繊細に配慮してあることが特徴です。

 

特に最近出回っている三文字アニメ制作会社(中国資本のアニメ屋さん)はひどい。

 

美術なんか眼中にありません。

 

そしてそんなアニメを見てみてもすぐにメッキが剥がれます、可愛いキャラクターが登場していても大して面白く作られていません。

 

やはり日本のアニメの魅力とはきれいな絵を面白いシナリオに載せて、いい音楽を添えてパッケージになっているところだと思われます。

 

そんな高品質なコンテンツパッケージは世界に類を見ません。日本独特のものです。

 

そんなことを感じる今日この頃なのですが、ようやく本題に入ります。

 

灰と幻想のグリムガルの “灰” とは・・・

 

人が死んで火葬したあとに残るあの灰のことです。

 

年齢をある程度重ねた人ならば実物を一度でも見たことがあるでしょう。

 

火葬場で人を燃やすと本当に、白い灰とスッカスカの骨と金歯など燃えないものが残るだけです。

 

この物語は異世界ものではありますがかなりリアルライクに世界観の設定がなされています。

 

異世界のグリムガルに放り込まれた人は我々のリアルの社会と共通の試練が与えられます。

 

生きるために仕事をして収入を得て生活を維持します。

 

それがかなりリスキーな職業しか選択肢がありません。

 

いわゆる戦士として生きるやり方しか用意されていません。

 

必然的に好むと好まざると強制的に兵士にさせられます。

 

敵は同じ人間ではなく異世界の生き物であるものの、

 

「命のやりとり」

 

であることは変わりありません。

 

この物語はキャストたちの成長物語ではありますが単純にいつも敵を倒して成果を膨らましていく過程のお話しではありません。

 

お話しのはじめのターニングポイントで味方、それもパーティのリーダーが敵に殺されてしまいます。

 

要の人物が死んで物語が動き出します。

 

“灰と幻想のグリムガル” は死んだ人のお話ではなく、残された人たちのお話です。

 

シナリオ的に、人が影響を受ける究極の現象が人の死、です。

 

シナリオ的だけではありませんが、我々の日常で “人の死” は稀です。

 

今の日本は戦時下でもないし、豊かな生活が一応担保されています、あくまで一応です。

 

リアルで人の死を描こうとすると、それは我々にとって日常ではないのでリアリティに欠けてしまいます。

 

毎日どこかで人は生まれて、死んでいるものですがしょっちゅう巡り会い直面するものではありません。

 

更に人が死ぬ理由も普通は病死だったり事故であったり、偶発的であることが一般的です。

 

物語上、人が死ぬ前提を必然にするには無理があります。

 

独自の世界観を構築する理由はこのような整合性を備えるためでもあります。

 

そして死に至る人物はパーティのリーダーではありますが主人公ではありません。

 

主人公のハルヒロは残された側で託された人です。

 

ぶっちゃけ自分が死ぬんであればそこから物語は始まりません。

 

当たり前ですが “死” とは終わりを意味するので死んでしまう当事者はその先の未来に関与できません。

 

ところが周りの残された人々は他人の死に直面するとこれ以上ないほどまでに反応して、そして物語を始めることが出来るのです。

 

シナリオ的に人の死は究極のアンチテーゼと言えます。

 

「いなくなる」より強力です。

 

それは「死」の瞬間がある、という事実が物事を加速させます。

 

頼りにしていた人物が死ぬ瞬間も含めて目に入ると、目撃した人物は否が応でも反応します。それが人というものです。

 

その反応に人物のオリジナリティが表れます。

 

それこそ個性しか描けません。

 

そして人は決して同じ反応をしません。

 

その反応も人の感情“全部乗せ” です。

 

“喜怒哀楽”とは、個人的に人の感情を4つぽっちに分けるこの言葉には賛同しかねますが、それこそ人の感情表現の全てを書く事が出来ます。

 

そう、「喜ぶ」感情も人の死を通じて書けるのです。

 

お分かりにならなければちょっと考えてみて下さい。

 

どんな比喩表現が人の死に直面して「喜び」となるのかを。

 

灰と幻想のグリムガルではそのような人の反応が描かれています。

 

さらに中盤以降は、たくさんの仲間を失った人物メリイを、亡くなったハルトのポジションに入れてしまいます。

 

かつてたくさん仲間の死に直面したメリイは心を閉ざしたままでハルヒロたちと向き合います。

 

“死”に直面した人たちがどのようにして生きていくのか、何を感じて生きていくのか、

 

そのような描写がきれいな絵で描かれているのが、灰と幻想のグリムガルです。

 

この作品はセリフにも面白さがあります。

 

さすが演出家監督作品ですね、特にランタのセリフには洒落が効いています。

 

ボケ突っ込みの要素もありテンポのある会話劇が至る所に表されています。

 

最後にもう一つ言わせて下さい。

 

世に出回っているシナリオ含め映像コンテンツに、人の死は一般的に広く使われています。

 

でも申したとおり、人の反応で人の死以上に反応する現象はありません。

 

最上級なんですね。

 

そんな貴重な現象をあまりにも安直に使いすぎていると思います。

 

いいんですよ、涙を誘うことはシナリオ的にも悪いことではありません。

 

でも“死”ってもっと重い表現なんです。

 

その“死”を描くにあたり、作者には責任があると思うのです。

 

適当な理由だけで“死”を描いてしまうと結局そのツケは「稚拙なシナリオ」として作者に返ってきます。

 

殉職する刑事モノを書いてもいいんです。

 

殺人事件で誰か殺してもいいんです。

 

でもその人の死ぬ「理由」はなんですか?

 

作者は登場人物をいくらでも死なせられます。

 

死なせられますがその責任を感じて描写してほしいものです。

 

「なんでこの人が死ぬの?」とか感じる作品が多すぎます。

 

“死”は一般的ではありません。パーソナルで使うにはもったいないのです。

 

他のシチュエーションより、より「意味」を持たせないと本来使えないものであります。

 

だから安易に「展開に困ったら誰か殺せばいい」なんて決して思わないで下さい。

 

“死”を描くには重い責任が伴います。

 

それを忘れて書くと確実に、シナリオに殺されます。


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