「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」から読み解くシナリオ脚本スキル

あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない|シナリオスキル|観客の琴線を震わす条件

今回のお題は

 

「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」から読み解く観客の琴線を震わす条件、です。

 

タイトルが長いので「あの花」と呼ばれています。

 

2011年放映されたオリジナルアニメです。

 

長井龍雪監督、キャラデザは田中正賀さん、脚本は最近監督に出世なさった岡田麿里さんで、いわゆるとらドラ3兄弟です。

 

最近、そういえばあまりアニメで泣かせる作品って減っている気がします。

 

観客を泣かせるにはどういった仕組みがあるのでしょうか。

 

そのあたりを考察したくて探したところ、あの花にしました。

 

お話しは秩父が舞台になっています。

 

当時、西武鉄道がタイアップしていました。

 

めんま、じんたん、あなる、ゆきあつ、つるこ、ぽっぽの6人は仲良しの幼なじみでメインキャストの超平和バスターズです。

 

この中で主役はじんたんでヒロインがめんまです。

 

ところがあるとき6人は秘密基地で遊んでいるときにめんまが事故で亡くなってしまいます。

 

お話しはそれからたぶん10年後あたりだと思われますが、残された5人が高校生になってからのある夏の日、

 

不登校のじんたんの目の前に亡くなったはずのめんまが、しかも同じくらい成長した姿で現れます。

 

ヒロインは事故死していますので、いわゆる黄泉がえり的な展開になります。

 

めんまの死によってもたらされた周囲の人の不幸や葛藤がしこたま描かれています。

 

さて、観客の琴線に触れるにはいくつか共通点があります。

 

泣ける作品は、泣くという感情の振れ幅の大きい部分で書くのでその点、岡田麿里さんはいつも上手いホンを書かれます。

 

殴り合ったり、泣き合ったり、極端な感情をよく描かれる脚本家です。

 

泣かせる条件その1は

 

まずは死がテーマやモチーフにあることです。

 

主役脇役問わず誰かが死んじゃうか、いなくなる状況があります。

 

“死”としなくても“無”としてもいいのですが、いずれも「あって当たり前」のものが無くなる描写がなされています。

 

泣かせる条件その2

 

時間が経過した後日談で、死んだ当事者より残された人のお話であること。

 

更に振り返られる時間に時限があることです。

 

何らかの事件や事故で死んだ本人の話より、残された人のお話メインになっています。

 

これって残された人目線になっていないと感情移入が起こせません。

 

描くタイミングは当事者が亡くなった当時か、一定の時間が経った後日談か、またはその両方になります。

 

そして描かれる物語には時限がある、期限が設定されています。

 

いつまでも偲んでいられる状況を許していないのです。必ず時間制限があります。

 

泣かせる条件その3

 

あくまで内輪の話であること。

 

家族か家族同様の付き合いのある人、または強い絆が備わっている人たちのお話であることです。

 

泣かせる条件その4

 

これは“あの花”の特徴でもあるのですが、当事者も見えない意思で動かされている点です。

 

めんま自身が「なぜこの場にいるのか」が分かりません。

 

このその4はホントに反則です。

 

死んだ人が死んだ後を偲ぶことはファンタジーならではなのですが、一度の事象で2度泣かせています。

 

一度目はめんまが事故で亡くなった当時、二度目は再会した後の別れ、です。

 

これがあの花の特徴なのですが、こういった極端な感情を複数回に渡り描いています。

 

泣く感情とはマイナスの感情、ネガティブマインドです。

 

それはギャップが大きいほど際立ちます。

 

ポジティブ絶頂で一気に落とされると観客は引き込まれます。

 

当事者は死んじゃうか、いなくなっちゃうので、残されたキャストの心情は辛いモノとなるのですが、実は観客も取り残されています。

 

これが同調となって観客も泣けるのです。

 

だから残酷なまでに残された人の感情を描かなければなりません。

 

残された人は当事者の死に直面して極端な変化や反応を起こします。

 

極端にギャップのある感情を描きます。

 

それはこの“あの花”のように死者を蘇らせても喚起しなければ観客は泣きません。

 

めんまが再び現れた意思は表されていません。

 

めんまもじんたんも意味が分かりません。

 

でも現世の人がいずれたどり着く結論、このままいて欲しい、という現実的な意思は時限があって終わりがあります。

 

めんまにとっては2回死ぬ事になります。

 

でもそれを感じるのはめんまではなく、残された人たちなのです。

 

残された人は同じ目に2度も直面します。

 

リアルの我々の世界でも人の死とは死んじゃう当事者より残された人の感情しか描くことが出来ません。

 

死んだ後の感情なんて誰一人想像の域を出ません。

 

問題は当事者より周りの人の感情にあります。

 

あの花では、ちゃんとめんまの親やじんたんの母親の心情も描かれています。

 

この描かれる人物は多ければ多いほど共感されますし、泣けるのです。

 

泣けるシナリオとは有と無のギャップにあります。

 

生死の有無もありますが、例えば記憶や思い出なども有無が泣ける要素になります。

 

当事者は有から無になります。

 

でもそれを見ている周りの人は有のままでいわば取り残された状況に置かれます。

 

それは当事者が意識出来なくても、周りの人は当事者の変化を目の当たりにします。

 

ギャップを観測出来るのです。

 

当事者は何か無くなることが自覚出来ません。

 

周りの人は見えてしまうのです。周りの人が当事者の感情を勝手に推し量ります。

 

そこに泣ける要素が盛り込めるのですね。

 

ホントに何か無くなるとか、反則です。

 

アニメ的には死んじゃう描写も多いのですが、記憶がなくなる描写もよく使われます。

 

keyビジュアルアーツ系、ダーマエ系(間枝准さんの作品)なんかは典型でこの「何か消えて無くなる描写」だけで観客を泣かせます。

 

ギャップが大きいほど感情の振れ幅が大きくなります。

 

有と無の落差が大きいほど泣けます。

 

顔は笑っていても涙が流れてくる、みたいな。

 

あの日見た花の名前を僕達はまだ知らないはこんなことも教えてくれるのです。


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