あかねさす少女|シナリオスキル|人物の性格設定

今回のお題は

 

「かねさす少女」から読み解く人物の性格設定、です。

 

キャラクターの造形では人物に対してさまざまな要素を添加していきます。

 

それは人の数だけ存在する多様性に満ちた特有の要素の集合体ではあるのですが、シナリオでは一定のカテゴリーに分けることが出来ます。

 

そのカテゴリーだけでもけっこう数あるのですが、まずは基本的なものと拡張性のある項目に分けられます。

 

基本的な項目とは、

 

名前、性別、年齢、背景、環境や境遇といったものが挙げられます。

 

これらはあらかじめ作者が決定してキャラクターに与えるべき基本要素です。

 

人物の名前、性別、年齢は作者が決められますよね。

 

それは作品イメージに由来します。

 

あくまでその人物らしいネーミングが求められます。

 

背景や環境、境遇も作者が与えられます。

 

作者のストーリーがどのようなものなのかに由来します。

 

これらはいわゆるストーリーの舞台設定に関わることなので作者が決めて与えるべき項目です。

 

問題、というか肝心なのが拡張する項目です。

 

性格設定や外面的要素、内面的要素とその変化はストーリーの中で一定になりません。

 

そこにこそ人物造形とストーリーを牽引する強力な人の個性が反映されて面白さに繋がっていきます。

 

とても難しい部分ではありますが、人を描くシナリオでは避けて通れませんし、シナリオの醍醐味でもあります。

 

拡張する性格設定はあらかじめ与えるべき要素としてはあまり多くありません。

 

特に発想初期ではキャラクターに与える特徴はひとつふたつ程度から始めます。

 

ストーリーが進む内に結果的に形作られるものなので最初から完璧な人物像を描きません。

 

これって、最初から確定させるとキャラクターの自由度や備え持っている拡張性を奪うことにもなりかねません。

 

キャラクターは作者の操り人形ではありません。

 

作者の与えた境遇によって変化していくものです。

 

その変化は、「キャラクターに任せる」のがセオリーです。

 

いつ何時でもそのキャラクターらしいものとは何か、を作者は発想し落とし込むのが最適な人物造形です。

 

あらかじめ予定されたような人物造形による変化は、それはステロタイプというものです。

 

ステロタイプではキャラクターの存在を尊重していません。

 

作者は例え架空の人物であってもちゃんと人格を認めて尊重するべきです。

 

大事なことなのでもう一度言いますが、

 

キャラクターは作者の操り人形ではありません。

 

基本的な設定は与えますが、拡張できる部分まで押しつけてはなりません。

 

作品が出来上がってみれば、あたかも作者がすべて構想したように見えますが、作る段階では縛ってはいけません。

 

自由に演じてもらってはじめて感情移入の出来る魅力が生まれてくるのです。

 

作者が意図する方向に仕向ける、作者が出来ることはここまでであり、どんなリアクションをするのか、どんな判断を下すのかは、

 

「キャラクター自身にやらせる」のです。

 

この感覚、お分かりになるでしょうか。

 

さて、

 

人の性格ってどうやって表現すればいいのでしょうか。

 

今回紹介する「あかねさす少女」には同じキャラクターでも違う性格描写が成されている好例が描かれています。

 

メディアミックス作品でアニメ版は2018年秋期に放映されました。

 

作品原案はゲームクリエイターの打越鋼太郎さん、監督は演出畑出の玉村仁(たまむらじん)さん、監督とは別にシリーズディレクターが置かれていて、アベユーイチさん、

 

シリーズ構成脚本はヤスカワショーゴさんです。

 

始めてこの作品を見たときは独特の雰囲気があるな、と感じました。

 

作品の印象は正直言ってニッチだと思います。

 

ただスタッフや声優陣は一級の実績者、実力者で固められていてアニメとしての完成度は高いと感じました。

 

特に惹かれたのがキャラクターデザインです。

 

とても線の強い絵だと思いました。

 

どのアニメタイトルのキャラクターも今どきキチンと描かれてはいますが、この作品では目力の強さに魅力を感じました。

 

ただ、画にしてもシナリオにしてもニッチな印象が拭えません。

 

もう後一押しが出来そうで達していないように見受けられました。

 

バトルシーンではフルCGで描かれていたりしますが、制作のダンデライオンアニメーションスタジオが東映系ということもあるのでしょうか、画が硬いように見えます。

 

監督も演出系、シリーズディレクターもコンテ系、脚本も長年実績のある方が担っておられる、声優も名の知れたベテランの割に、「これはメジャーになりにくい」と思う作品でした。

 

私は好きですが、総じて費用対効果が薄い作品だと思います。

 

何が原因かは知る由もないのですが、ちょっと残念感があります。

 

本題ですが、この作品では同じ人物で違う性格設定のキャラクターが複数登場します。

 

お話は女子高生のヒロイン「土宮明日架(つちみやあすか)」率いる「鉱石ラヂオ研究会」のメンバーが平行世界に移動してその世界で活躍する、といったものです。

 

平行世界モノですから移動した世界には同じ人物で違った性格を持った同一人物がいます。

 

メインプロットは現世界の明日架と、違う平行世界で「黄昏」という世界を侵食し消滅させる現象を妨げようとするもうひとりの「明日架」との関わりが描かれます。

 

同じ人物で違う性格設定を与えられている人物が、明日架の場合3人描かれています。

 

「黄昏」に抗う明日架は劇中「シリアスカ」と呼ばれます。

 

イメージがシリアスなので、シリアスな明日架で「シリアスカ」になりました。

 

ヒロインの「明日架」の性格は至って明るく元気でポジティブで脳天気な設定が成されています。

 

対して「シリアスカ」は衣装からして戦士的な厳しさをまとっています。

 

人物設定でまず考えられることは外面的特徴です。

 

いわゆる見た目、聞いた目です。

 

容姿、スタイル、衣装、持ち物小道具などのディテールの見える部分、聞こえるセリフや音があります。

 

簡単に同一人物でも違う人物を描こうとした場合は、こういった見た目聞いた目の「目に見える部分、耳で聞こえる部分」を変更すれば視聴者は判断出来るようになります。

 

でもそれだけでは足りません。

 

性格という目に見えない部分を何らかの形で見せなければ観客は納得しません。

 

そう、人の見えない部分を「見える形」にして、はじめて性格設定が出来上がります。

 

「明日架」と「シリアスカ」を比べてみましょう。

 

明るい「明日架」はいつも笑っていてにこやかです。ちくわ占いをして周りを巻き込みます。リーダー像が描かれています。

 

シリアスな「シリアスカ」は戦う戦士なのであまり笑いません。武器を携帯していていつも緊張しています。

 

「あかねさす少女」は平和な現世界と消えゆく運命にある世界との対比で描かれています。

 

その世界観は作者が与えるモノですが、「あすか」の人物像はその世界にいる「あすか」がどう振る舞うのか、どう振る舞うとその世界の「あすか」らしいのかに由来しています。

 

同じ人物でも内面的要素から外面的要素に転化されることで違う人物になれるのです。

 

性格そのものは目に見えません、ですが目に見える形にしないと性格は人に伝わりません。

 

故に、その人物らしさを「目に見える形、耳で聞こえる」具体的な描写として描かなければなりません。

 

現世界の「明日架」だったらどうするか、戦う「シリアスカ」ならどうするのか、「あかねさす少女」には格好の具体例が示されています。

 

では同一人物で違う人格ならばすべて全く違っていいのかどうか、ここがこの作品の秀逸なところだと私は感じます。

 

後半、ターニングポイントで「明日架」は3人目の「黄昏に導かれし明日架」に出会います。

 

「黄昏あすか」は同じ明日架でも子供時代の姿をしています。

 

「黄昏あすか」は全てを捨て去った明日架として、黄昏に取り込まれた明日架として登場します。

 

いわゆる黒幕です。

 

「黄昏あすか」は感情すら捨て去った姿なので優しさもないし、笑いませんし無機質な性格設定が成されています。

 

「明日架」は選ばれし者として「黄昏あすか」と同様黄昏に引き込まれます。ここで物語のヒロインとしての特異性が明らかになります。

 

この展開の解消として、明日架の性格による同一性が最後に描かれます。これがこの作品の秀逸なところです。

 

それぞれ分岐した世界にいる明日架は共通した事情が置かれています。

 

それは子供時代に弟の「土宮今日平」を無くしたことでした。

 

実弟が行方不明になったという事情があります。

 

世界によって明日架の性格に違いが出た原因がこの弟を無くしたことに起因します。

 

現世界の「明日架」は、弟がいなくなった原因が自分にあると感じ、周りから責められることを恐れて本心を隠し振る舞いました。故に無駄に明るく見せていました。

 

「シリアスカ」は、いずれ戻ってくるであろう弟の世界を黄昏から守ろうと戦いました。(これは私の推論で実際に描かれませんでした)

 

「黄昏あすか」は、全てを捨て去って黄昏に準じることで感じることそのものから逃避しました。

 

ここに性格設定の根底にある共通する感情が描かれています。

 

共通する感情が暴かれて、認める事により事態は収束に向かいます。

 

なんともはや、難解なプロットです。

 

バラバラの性格を最後にちゃんとまとめられた、これが「あかねさす少女」から読み解くべき人物の性格設定です。

 

これはかなり深読みした考察ですが、人物に因果の違いがあるから同じ人物でも違いが描けるのです。

 

同じ原因でも結果が違う、性格が違うから判断も行動も違ってきます。

 

それが人物固有の個性を描くことに繋がります。

 

性格は比喩として具体的に見せなければ違いが分かりません。

 

それはシナリオ的に時系列に従って一つ一つちゃんと見せていかなければならないのです。

 

最後に、なぜこの作品がニッチに感じたのでしょうか。

 

ひとつは黄昏の正体が明かされなかったことです。

 

ひとつはキーキャストになっている「土宮今日平」の存在です。

 

最初、何かの布石と思いましたがそうではありませんでした。

 

単なる理由のひとつでしかありませんでした。これはもったいないと率直に感じます。

 

もう少し具体的な役回りも与えられて然るべきかな、と思いました。


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