安達としまむら|シナリオスキル|NMで心象を表現する
今回のお題は
「安達としまむら」から読み解くNMで心象を表現する、です。
アニメではN(ナレーション)、M(モノローグ)で物語を構成している作品が台頭しています。
かつて私がシナリオスクールに行ってた時に、一発目違和感を覚えたレクチャーがこのN、Mの扱い方でした。
スクールではアニメというジャンルに限って教えているわけではないので一般的なN,Mがどういったものか、という前提であったと思われます。
リアルドラマや実写映画がデフォルトということですね。
そしてスクールではNやMは多用してはいけない、と教わります。
それはなぜかというと、
- シナリオの役割としてNやMは説明に使えてしまうこと
- 使おうと思えば描写なんかしなくても、いくらでも喋れてしまいシナリオが安易になる
- 第一シナリオライター的に楽である
- セリフは朗読するものではない
などなど・・・・
当時なんだかいっぱいネガティブな意見を言われた気がします。
でも、アニメ的にNやMで物語を引っ張っている作品は珍しくなく、むしろ面白い作品がそうなっているのでとても違和感を感じました。
それをダメ出しするなら、なんで現実のアニメ作品がそうなっているのか、突っ込みたい気持ちを抑えていました。
結論を言えば、スクールの守備範囲が古くて狭いだけ、です。
ただ、実写でアニメみたいにNMだけで構成すると、確かに違和感しかありません。
アニメを真似て作られた作品も多いですが、見ていてあまり優れていないことも事実です。
ですから今回はアニメ視点でNとMを語ってみたいと思います。
はじめにアニメであるなら、NやMは使ってもいいし、使うべき手法です。
新房昭之監督の西尾維新物語シリーズにしてしかり、今回の「安達としまむら」にしてしかり、事実としていい作品、面白く感情移入できる作品になってます。
「安達としまむら」は入間人間(いるまひとま)さんのラノベ原作です。
アニメ版は2020年冬期に発表されました。
入間人間さんというと、百合系が得意な印象があります。
百合系は私的に心象表現が繊細で好きなジャンルです。これは普通の恋愛モノや他のジャンルにはなかなかないものがあります。
アニメ版の監督は桑原智さん、手塚プロの演出畑出身の苦労人、だそうです。最近ですと「五等分の花嫁」を作られました。
シリーズ構成は大御所の大知慶一郎さんです。
「安達としまむら」はダブルヒロインです。
タイトルそのまま、高校一年生の安達桜(あだちさくら)と同級生でサボり仲間の島村抱月(しまむらほうげつ)のお話です。
最初にこの作品を見たときに、しまむらの名前が女の子であるにも関わらず「抱月」となっているところに違和感がありました。
これがまた、調べてみたら実在した文芸家の名前そのまま引用されていました。
入間さんがなぜしまむらの名前を過去の文人から取ったのかは分かりませんが、偶然ではないでしょう。何らか意図がありそうです。
※島村抱月
1871年〜1918年、文芸評論家、演出家、劇作家、小説家、詩人、
明治時代にヨーロッパ流の近代演劇である新劇運動に志し劇団芸術座を主宰した。(ウィキペディア抜粋)
百合モノではありますが、ガッツリいくものではなく、女子高生同士の友情もの、といったところでしょうか。
軽めの百合モノであります。
それでも思春期の女子心が繊細に描かれています。
その描き方がNとM中心の構成です。
物語について語る前に、シナリオスキルとしてNやMの使い方をお話しましょう。
ナレーションやモノローグとは、記述するところこそセリフと同じですが、セリフとは決定的に違う事があります。
それは、
セリフは嘘を描かねばなりません。
NやMは真実を描かねばなりません。
NやMは状況説明や心象表現、つまり気持ちでも本音の部分を描かないとつじつまが狂ってしまいます。
もっと言うとNやMは文章表現、地の文で書かなければなりません。
地の文はシナリオ的に書いてはいけない、という前提がありますが、その前提さえも覆して演出に仕立てているのがNやMです。
無論、そのNやMはいくら牽引するといっても全てそうするわけではありません。
あくまで演技の補完で使うのです。
「安達としまむら」では安達目線で語られるパートと、しまむら目線で語るパートと分かれています。
互いの心情をNやMでぶつけ合うことはしていません。
行動の理由としてMで本音を聞かせてから描写で具体的な行動リアクションを見せています。
その本音とアクションの乖離に面白さがあります。
安達の性格は、一言で言えば「ボッチ」です。
安達は徐々に、しまむらに対して一方的な好意を寄せていきます。
安達はけっこう自分のことが中心でいわゆる子供です。
一方しまむらは、人とのコミュニケーションは出来る子ですが、かなりドライな性格です。
近くにいるときは仲良くするけど距離が離れたら無関心、みたいな、
なんとなく冷めていていわゆる大人の対応が出来ます。
そしてこれが肝心なんですが・・・
心象表現をMに任せて、何を表しているのか、といえば、
それは「心の距離」だと思います。
安達としまむらの心の距離、これがこの作品の面白いところです。
そしてこの曖昧な距離感はアニメだから成せる技でもあります。
繊細に描くことが出来るのです。それも頻繁に。
実写ではNやMを入れすぎるとクサくなります。リアリティにそぐわない。
しかもモノローグって、本来の意味は「独白」です。独り言。
ただしMは、しゃべる動作を入れないでそのままMを入れると、心の声として見ている人に説明が出来てしまいます。
そのような効果はリアルでは当然有り得ません。
でも画で描かれるアニメだと実写に比べリアリティに欠ける分デフォルメとしてさりげなく載せられる、そうしても違和感がない、のです。
Mで心情を聞かせておいて、肝心のアクションはそれと真反対なセリフや演技を見せます。
非常にわかりやすいのですね。
わかりやすさに乗じて、さらに深いところまで描いています。
特にしまむらの描写はかなり深く鮮明に描かれています。
たぶん、メインヒロインはしまむらの方でしょう。
心の距離なんて曖昧な表現を「安達としまむら」ではどのようにしているのか、
それは「対比」です。
比べて見せること、ですね。
しまむらの周囲には他のキャストとして、
似たような関係性で同級生の日野と永藤、
安達母との議論(本人は議論しない、といっておきながらw)
謎の宇宙人、ヤシロとの関わり、
しまむら妹、
そして再会した幼なじみの樽見と、
こういったサブキャストとの関わりを用いて安達との距離感を見せています。
当然ながら、サブキャストにNやMでの心象表現はありません。
あくまでしまむらだけ、Mとして心情が載せられています。
そこで安達との「違い」を描いているのです。
しまむらは、いわば大黒柱です。
いくら安達が想いを寄せていようが、樽見が近づこうが動じません。
いたってマイペースです。
そういった関わり合いの中でも、本当は求めている部分も感じます。
ただ、自分からは積極的になれないだけ、
そうした自分もしまむら自身が理解した上で振る舞います。
これって我々でもありませんか?
正直に言うと、しまむらの態度は私のよくやる他人との態度に似ていると共感しました。
私も距離が近いなら積極的に人と交わりますが、一度離れると冷たいまでに関心がなくなります。
それは誰しもそういった事ってあるのではないでしょうか。
そんなリアリティも感じさせてくれる「安達としまむら」でした。
NやMは使いようです。
やってはいけない、ということではありません。
ただ、気を付けないといけない、というだけです。
アニメにおいてNやMで端的に理由や事情をさっさと伝えて、リアクションに時間を割くことは理に適った演出なのですね。
最後に、
安達としまむらが最初に邂逅したところは体育館の2階の卓球場でした。
授業に出たくなくて、人と関わりたくなくて偶然出会いました。
こんなこと、実際には有り得ません。
授業をサボっていなくなったら普通学校は探しますし、親に通報します。
でもそれはファンタジーで、二人は関係を育む時間を与えられています。
でも、でもですよ、
授業に出たくなければ出なくたっていいんじゃない?と私は思います。
もちろんそんなことしても素敵な相方と出会うことは希です。
でも「安達としまむら」では物語が始まる出会いがありました。
「こんなことがあったら素敵だな」というファンタジーではありますが、やりたくないことをムリしてやる必要はない、と長く大人をやってきた私は思うのです。
だって学校で上手くいったからと言って社会で上手くいく条件ではないのですから。
短い学生時代、感じるままに好きにしても、しまむらが言ったように「迷惑さえ掛けなければ」許されるものではないでしょうか。
それを許さない社会の方が問題だと思います。